エストニアは北欧-東欧に位置する国です。


バルト海に面する国で、同じラトヴィア、リトアニアと合わせバルト3国と呼ばれます。




とくに近現代に入ってから小国故の苦難に晒されるのですが、私がこの国に同情を禁じ得ないのは、ドイツやソビエトと陸続きに存在した国であった、と言う点です。













中世以来、スウェーデン帝国やロシア帝国の支配下にあったこの国は、第1次大戦中にロシア帝国が革命によって斃れたことで、1919年に独立を果たしました。




しかし20世紀半ば、ヒトラーとスターリンと言う2人の独裁者が存在した時代。


つまりドイツとソ連がにらみ合っていた時代において、エストニアはその両者の中間に位置する場所に国がありました。




国家社会主義ナチスドイツ、共産主義国ソビエト連邦と言う二つの悪魔に挟まれていたこの国は、当然の成り行きと言うべきか世界地図から姿を消したのです。








大国に到底敵わない小国が生き残るために求められるのは、外交の力です。
軍事力がなくとも、外交による立ち回り次第では生き残ることだって当然可能なわけです。

有名どころがタイ(シャム王国)ですね。
タイは日本と並んでアジアで独立を保持していた国です。
よく、イギリスとフランスの緩衝国としてのみ存在を許されたから、という論調がありますが、それだけではありません。


タイは卓越した外交力によって、弱肉強食の時代に軍事力を持たなくとも生き残れたのです。



日本には軍事力があったが外交力がなかった。


タイは軍事力こそなかったが、外交力があった、ということですね。






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エストニアに話を戻しまして、1939年。
エストニアの独立が極めて危ういものとなった時、エストニア外務大臣は奔走しました。



1939年8月、ドイツとソ連は秘密協定を結び、その中で東ヨーロッパの勢力圏が決められました。いわば領土の山分けです。
この中でバルト3国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアはソ連の支配下になることが決まっていました。
イギリスやフランスも助ける余裕はない。ドイツのお墨付きもある。ソ連はもはや遠慮など全く必要なくなったのです。




当時のソ連はエストニアに対し、エストニア国内にソ連軍の軍事基地を作らせろという無茶苦茶な要求をしてきます。もしこれを許したら、エストニア国内に公然とソビエト軍が居座ることになる。

それはエストニアを軍事的に占領しているとの同じです。
独立国家としては、到底容認できるはずはありません。






もう一つの問題は、ソ連の狙いは果たして基地の利用目的のみの駐屯なのか?ということで、これを口実にしたエストニア軍事併合こそ、ソ連の真の狙いなのだろう、と言うのが当然の予測です。







★ソ連の外務大臣、ヴィヤチェスラフ・モロトフ。
スターリンの忠実な側近で、エストニアに進駐を要求した時の外務大臣も彼です。





承認すればエストニアは実質、ソ連の占領状態になる。

だが断ったらソ連は力づくで占領してくる。

エストニアの力では、絶対にソ連に敵わない。


エストニアはソ連に対し、エストニアの主権を侵害しないことを条件に進駐を許可します。
苦渋の決断だったでしょう。
エストニアがどれ程の悔しい思いだったか、察するに余りあります。





エストニアに進駐したソ連軍は、約束を公然と破りました。

その軍事力を背景に、エストニア議会の解散を強行します。

エストニアに共産主義政権を誕生させ、果てはエストニアをソビエト連邦の構成共和国にしてしまったのでした。





ハッキリ言って反吐が出るやり方です。
解散させられたエストニアの政治家はさぞや無念の気持ちだったでしょう。
しかし、力なき国の末路という非情な現実がそこにあります。


どれほどの崇高な精神を持ってもいても、強大な力の前には踏みつぶされてしまうのが国際社会の現実なのです。












ソ連の構成国になったエストニアはこの後、ドイツとソ連が戦争を始めた事で更に苦悩の歴史をたどることになります。

戦争初期、圧倒的優勢にあったドイツ軍はエストニアをソ連から「解放」。




ドイツはエストニアでもユダヤ人狩りを行い、虐殺を始めます。

その他のエストニア人の若者は、ソ連との戦争に駆り出されドイツ人に協力を強いられたのです。このエストニア兵は、ドイツ軍によって捨て駒のごとき扱いを受けたと言われています。





またソ連軍の中にもエストニア人の部隊が存在し、ドイツとソ連のはざまで、同じエストニア人が殺し合うという奇妙な出来事すら起こりました。




ですがドイツとソ連の戦争はソ連の勝利に終わり、結局エストニアはソ連に従属する形に戻ったのです。




エストニアはこの後、1991年になって念願の独立を果たしました。もはやソビエトが、バルト3国を引きとめる力さえ失い果てた時代になってからの独立でした。







現在のエストニアはバルト3国の中でも、というよりヨーロッパでも随一の反ロシア国家として有名で、エストニア-ロシア国境線の対立を含め、険悪な関係が続いています。




ロシア帝国の支配時代、ソビエトロシアの支配時代、この二つの時代を経たエストニアの反ロシア感情は現在も根強く残っています。






エストニアは、日本にとっては非常に遠くにあるヨーロッパの小国ですから、余り知名度も高くない国です。しかし第2次大戦当時、日本と同じようにエストニアも、国家の生存を賭けて苦悩したのだと想いを馳せるのも悪くはありません。