※1の冒頭で誤りがありました。
台湾人の楊素秋さん著「日本人はとても素敵だった」にあるコラム、大東亜戦争への道をベースに記述しています。
日本は昭和16年(1941年)9月6日に開かれた御前会議の中で、
陸軍の出した「帝国国策遂行要領」が決定しました。
●天皇陛下もご臨席なさるのが、御前会議です。重大な案件を取り扱う際などに開かれます。
要領の中には、自存自衛のために対アメリカ、イギリス、オランダとの戦争を辞さない決意のもと、概ね10月下旬を目処として戦争準備を完整す
とされ、これに並行し
アメリカ、イギリスに対し外交の手段を尽くし日本帝国の要求貫徹に努むとありました。
これを聞いた昭和天皇は「外交が主か、戦争が主か」と言われ、次の明治天皇の御製をお詠みになられました。
「よもの海 みなはらからと 思ふ世に
など波風の たちさわぐらむ」
これは「人類みな兄弟だと思うのに、何故争いごとが起こるのだろう」という意味です。
これを見れば、昭和天皇の、出来る限り戦争は避けたいという切なるお気持ちが察せられるはずです。
昭和天皇が戦犯だとか、戦争を起こした張本人だとか、的外れもいいところなのが分かると思います。
これを聞いた内閣の閣僚たちは、再び平和的解決を目指し、尽力しようと決意したのでした。
この時、近衛文麿首相は、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトに直に会って会談しようと考え、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーに取り次ぎを申し出ました。
直接会って、日米の誤解を取り払おう、という狙いです。
●グル―大使は近衛首相の熱意に動かされ、日米首脳会談の実現に向け積極的に動きます。
ですが、これはアメリカ国務長官・コーデル・ハルによって握りつぶされます。
「日本の方針転換がない限り、私はこれを大統領に取り次ぐ自信はない」
と、日本が我々の要求をのまない限りは話すつもりはない、と横暴に返されました。
しかして和戦を決めることができなかった近衛内閣は総辞職。
時の陸軍大臣である東條英樹は、宮様(皇族)が首相となってまとめるしかない、と主張しますが、
木戸内大臣が、これを退けました。
●木戸幸一内大臣。
皇族内閣は、その責任が宮様へ行ってしまうことを恐れたため実現しませんでした。
変わって首相に就任したのは、昭和天皇の強い信頼を得ていた東條英樹です。
これが東條内閣です。
一般には東條独裁とか言われますし、学校でもそのように教えてきたでしょう。
しかし現実は違います。
この時、陸軍は強硬に戦争を主張し、これを止められるのは陸軍大臣の東條英樹しかいない、と昭和天皇はお考えになったのです。
●東條英樹・陸相は戦争支持派でした。しかし、首相就任後は、一転して戦争回避へ尽力します。
「陛下のお考えは、戦争回避。外交による妥結である」と理解していたためです。
東條は、9月に開かれた御前会議の決定を白紙に戻し、平和になるようにとの昭和天皇の御言葉を実現せんがために奔走しました。
陸軍と海軍は、作戦上から11月下旬には戦争遂行する前提でいましたが、これに対し東條英樹首相は「もう少し先延ばしにできぬか。1日でも長く外交をやらせてほしい」と主張します。
これは退けられましたが、東條首相が戦争を支持した、などというのが夢想であることが分かると思います。
日米交渉の最中、南雲忠一中将率いる機動艦隊は、北方の択捉島を出てハワイへ向かっていました。
当時、この作戦は超極秘で進められており、厳重な無線封止の下に、唯一の行動指針として
NHKラジオ海外放送で流れていた「山川草木転荒涼」という、乃木希典大将の詩吟(しぎん)でした。
これが流れている限り作戦行動を継続せよ、と言う意味です。
●南雲忠一中将。戦争初期は無敵と言われた空母機動部隊を指揮。
..しかし1943年、サイパン島にて自決しました。
和戦の意思など初めからないアメリカは、11月26日、最後通牒ともいうべき
ハル・ノートを突きつけました。
ハルノートは日本の満州権益すら否定しており、取りも直さず日本が満州事変以前の状況に戻れという要求であることは疑いようがなく、全く理不尽なものです。
これによって、もはや戦争はやむなしという見方が大勢となり、12月1日の御前会議で戦争が決定しました。
東條英樹首相は、御前会議の中で涙声で上奏し、開戦日の12月8日未明には、皇居に向かって号泣したと言われています。
戦後、東京裁判において、日本人被告の全員無罪を主張したインド人のパール判事は、
「モナコやルクセンブルクのような小国ですら、このような通帳を突き付けられたなら矛を持って立ちあがっただろう」と、ハルノートを痛烈に非難しています。
とにかく、ここに至り日本は遂に開戦を決定しました。
1941年12月8日。
約4年半にわたる大戦争。
世界最大の経済大国・アメリカ合衆国と、その同盟国である、イギリス・フランス・オランダに、日本は戦いを挑んだのでした。