アメリカ合衆国。西欧列強から遅れて帝国主義政策を推し進めるアメリカ合衆国は、【文明とキリスト教を広めることこそ神の啓示】という建前を掲げひたすら西へ西へ拡大を続けていきました。
このとき、なぜ西に拡大していったかという問題ですが、まずカリフォルニア方面には列強の利権がない。かつ資源豊富である。
その他方角は、大英帝国を始めフランスの利権も絡んでおり、欧州列強国との衝突は免れない。ゆえに、合衆国の当然の選択として西進が推し進められていったのです。
そして神の啓示を掲げたアメリカ合衆国は、先住民のインディアンを虐殺して土地を奪い、ハワイ諸島、ウェーク島、サモアを勢力圏へ。
さらに米西戦争で卑劣にもフィリピン軍を裏切り、植民地化。
『英国が香港に拠るがごとく、我らはフィリピンに拠る』
として、フィリピンを拠点に中国の巨大マーケットを虎視眈々と狙っていったのです。
変わってロシア帝国ですが、第一次世界大戦のさなか、1917年2月の革命で帝政が崩壊。同年10月の革命で今度はロシア社会民主労働党ポリシェヴィキ派が権力を握りました。
全ての権力をソヴィエト(評議会)に!のもと、ロシアは瞬く間に共産化の波に呑まれていきました。この波がとうとうシベリアに及ぶに至り、日本にとって、ロシア革命はもはや遠方の火事ではなくなります。
友好的なロシア帝国、ひいてはロシア臨時政府が崩壊した事実を目の当たりにした大日本帝国は、得体のしれないソビエト国家が成立することを阻止したい一心で、出兵を決意します。
これこそが、大正7年(1918年)からおよそ3~4年の歳月をかけて行われたシベリア出兵でした。
日本のみならず、列強各国も規模の大小こそあれ、出兵を行っています。
とりわけ、日本の北満州地方への勢力拡大をけん制したいアメリカ合衆国も当然出兵しました。
ところがこの出兵はなんら芳しい効果をもたらさずに、いたずらに戦費と兵力を損傷させるだけの結果に終わり、日本はやむなく撤退をします。
この日本の撤退で、当時の満州地方で共産パルチザンの跳梁跋扈を許し、日本人居留民のみならず、朝鮮人、満州人に危害を加えるようになったのです。
ここに至り、日本にとって満州地方の治安維持が急務となったのでした。
満州地方の共産パルチザンに対し、何ら有効な手を打つことができませんでした。そうこうしている間に、現地の日本人の被害は広がるばかり。
これに対し、現地の関東軍(遼東半島の突端、関東州に駐留していた日本軍)は
「もう弱腰の日本政府に任せてはいられない。
現地の日本人を守らねばならない」
と、日本政府の許可を得ないまま、軍事作戦を展開。
柳条溝事件を機に、1万人余りの兵力を持って日本の約5倍の面積をもつ満州を支配しました。
これが昭和6年(1931年)に起きた満州事変です。
この満州事変を計画したのが、日本陸軍の天才と言われた石原莞爾でした。
翌年の昭和7年(1932年) 、満州を占領していた関東軍は、満州国の建国を宣言します。
同国には、清王朝の最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政に迎え、「五族協和」「王道楽土」をスローガンに統治していきました。
五族とは、「満州族」「漢民族」「蒙古属」「朝鮮民族」「日本民族」のことを指し、五族協和とは諸民族の団結を促したものです。
日本人の満州統治は必ずしも民族平等ではありませんでしたし、横暴な日本人が存在したのも事実です。
掲げていた大義と行動が一致しない日本人を、満州人は大手を振って迎えていたわけではありません。
また、中華民国は満州国の建国を痛烈に非難し、国際連盟に提訴しています。
それでも、内戦が続き治安のよくなる見通しがない中華民国と比すれば、圧倒的に安定した満州国の人口は年々増加。年間100万人の漢民族が満州に逃れてきます。まさしく、王道楽土と化したのです。
昭和12年(1937年)7月7日
北京北部に位置する盧溝橋で、演習中の日本軍に対し、突如中国軍が発砲するという事件が起きます。
当初、事態の拡大を避けたい日本軍は静観していました。
しかし、止まぬ不法射撃に対して已む無く日本軍も応戦します。
これこそが盧溝橋事件です。
盧溝橋事件の後、日中の間に停戦が結ばれますが、廊坊事件、広安門事件、通州事変と、中国側がことごとく停戦協定を破って日本に攻撃を仕掛けてきます。
さらに上海では日本海軍陸戦隊が中国軍に殲滅させられたことで、もはや日本も本格的に軍事作戦を展開せざるを得なくなりました。
これは当初北支事変と呼ばれ、中国北部に限定された戦闘になるはずでしたが、やがて戦いは中国奥深くに至り、名を支那事変と変えるのです。
軍事侵攻を開始した日本軍は、錬度で劣る中国軍を粉砕し一期に進軍します。
そして中華民国の首都、南京へ到達したのでした。
日本軍が首都南京を占領する間際、中国軍司令官は守るべき市民を見捨てて早々に逃亡。残された末端の中国軍兵士たちは、市民から衣服を剥ぎ取り、市民を装いました。混乱に乗じて略奪を働く国民党軍さえいた始末です。
いわゆる『便衣兵』による日本軍への攻撃があったかどうかは別として、南京の治安を乱す偽装市民を掃討するための行為こそが、後の南京『大虐殺』の捏造につながったのかもしれません。
そもそも、南京大虐殺など、後のアメリカ合衆国の原子爆弾投下による大虐殺から目をそらさせるための、全くの作り話です。
南京30万人虐殺というのも、原子爆弾の被害者数に合わせただけで、そもそも日本軍支配下の南京は人口が増加の一途をたどっているのです。
これは、治安が良くなり中国人が大挙して押し寄せてきた証左に他なりません。
ところが、この日中の戦いは、欧米列強にとって「日本が中国を侵略している」とする絶好の口実となり、
日本を押さえ込みたい米英ソ、そして当初はドイツですら、中国(国民党)を支援するのでした。
それにより、1933年の連盟脱退により始まった大日本帝国の国際的孤立は加速度的に増していくのでした。