1894年-明治27年に起きた近代日本史上、初の対外戦争、日清戦争

この戦争は、翌年の1895年(明治28年)に決着がつきました。



結果-日本の戦略的勝利

主に以下の条件で、日清合意の下に結ばれたのが下関条約です。

(かなり簡略化しています)


1.清は朝鮮の独立を認める

2.遼東半島、台湾、澎湖諸島を、日本の領土にする

3.清は賠償金として、2億テール(約3億円)を日本に支払う



清から支払われた3億円とは、日本にとって莫大な額でした。

当時の公務員の初任給が50円ほどですから、3億円がどれほど大きい金額かわかろうというものです。


それだけに留まらず、戦勝の結果、新たな領土まで獲得したのですから、日本国民は狂気乱舞したのでした。



日本が獲得した領土はいくつかありましたが、そのうちの遼東半島が、火種となります。


遼東半島は、満州地方(現中国の東北地方)の黄海に面する位置にありますが、日本に敗れた清国は失った領土を取り戻すために西欧列強の力を借りようとしました。


清国ロシア帝国に働き掛けて、さらにロシア帝国に協調したドイツ帝国(第二帝国)、フランス共和国(第三共和政)を抱き込んで、遼東半島を清に返すよう日本に迫りました。


これが、いわゆる三国干渉です。

ロシアは極東での軍備増強を持って日本に無言の圧力をかけ、ドイツとフランスも同様の行為を持って日本に返還を迫りました。


もしも、この要求を退けたら、ロシア、ドイツ、フランスと戦争状態になるかもしれない。もしそうなれば、勝機は絶対にない。そう考えた日本は、悔しい思いを抑えて、遼東半島を手放すことにしました。



これでひと段落と思いきや、なんとロシアは日本が撤退したのをいいことに、遼東半島への進出を始めました。

つまり、邪魔者の日本を恫喝して追い出して、今度は自分がその権益を得たのです。




ロシアの意図を遅まきながら理解した日本は憤慨しましたが、現状ロシアに対して何ができるわけでもない。軍事力でも絶対に敵わない。


日本は「いつか必ずロシアに引導を渡す」胸に秘め、ひたすら軍事力の増強を図りました。

ここから日露戦争までの10年間、日本は『強兵』政策を強烈に推進しています。なんと国家予算の約半分が軍備に回されていたのです。その結果、陸軍規模は2倍に、海軍もいわゆる『六六艦隊』の配備を完整しています。






一方で、日本が力を蓄えていたさなかの1900年(明治33年)。

清国で大きな出来事がありました。

義和団の乱=北清事変です。


義和団という清国の匪賊集団が、扶清滅洋(ふしんめつよう)を合言葉に、蜂起したのでした。扶清滅洋とは『清を助け、西洋を滅ぼす』ことを意味します。

近代に入り、ことごとく西欧列強に敗北して国土を分割され、さらに小国と侮っていた日本にすらコケにされた清国の堪忍袋は、とうとう切れたのです。


(ていていたー氏制作のFLASH、『日露戦争』より)


清国の政府は、初め義和団の反乱を支持していましたが、日本や西欧列強の連合軍を前に劣勢と見るや、すぐさま義和団を見捨ててしまいます。

結果、日本と列強諸国は共同で事変を鎮圧。清は列強諸国に対して賠償をする必要が生じたうえ、清政府に対する清国民の不信は決定的になりました。




事変収束後、列強諸国は軍隊を引き揚げますが、満州地方を我が物にせんとして中国に残り続けた国がありました。

それがロシア帝国です。



ロシア帝国が満州を押さえれば、次は朝鮮半島を狙ってくる。朝鮮半島を押さえたロシアは、日本の重大な脅威になる。
そう考えた日本は交渉でロシアの撤退を促しましたが、芳しい結果は得られず、物別れに終わってしまいます。






悪いことにロシアはフランスと同盟関係にあったため、ロシアと戦争状態になると、フランスとも交戦しなければいけない可能性がありました。








そんな日本に、思いがけない強力な味方が現れます。

七つの海を制したイギリス帝国でした。

これこそが日英同盟



日英は共同してロシアに圧力をかけますが、ロシアの膨張を止めるに至らず、結局戦争に突入します。




ただ日英同盟は

「もし日本が2国以上の相手と戦争をするとき、
イギリスは日本側で参戦する」

という、日本にとって強力なバックアップが生まれます。

日英同盟の存在により、ロシアの同盟国フランスは参戦できず日本はロシアと一対一で戦える状況が出来上がったのです。






1904年-明治37年。

日清戦争からちょうど10年後に起きたのが、日本とロシア帝国の戦い。

日露戦争です。


戦場は日本でなければロシアでもなく。

緒戦は朝鮮半島、以降は満州地方が戦場でした。



日本とロシアの兵力差をみると、日本に勝ち目など全くないように思えますが、しかしいざ開戦してみると日本軍は連戦連勝で進みました。


1905年-明治38年では、陸では奉天会戦、海では日本海海戦で日本は大勝します。


(



ただし、日露戦争開始から1年が経過した時点で、日本が費やした戦費は約18億3000万円にも達しました。参考として、当時の国家予算は2、3億です。。







日本は財政破たん寸前で、弾薬も砲弾も尽きた形でした。

ですが、陸と海での大勝と樺太南部の占領を持って、講和交渉へ移ることができたのです。

対するロシアも、相次ぐ敗北での士気低下に加え、国内で不穏に動く内乱の芽、社会主義運動のために早期に戦争を終わらせる必要が生じました。



そして、戦争の落とし所を話し合うための、ポーツマス講和会議が開かれるのです。







この会議は、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領の積極的な協力の下に開かれました。

(日露戦争期の日米関係は決して悪くなく、むしろ戦前からアメリカは日本を支持していました)




日本とロシアの交渉は噛み合わずに決裂の危機にもなりましたが、日本が賠償金を放棄したことで好転。

日本の朝鮮半島での指導的地位をロシアに認めさせた上に、満州地方の東清鉄道をロシアより割与され、樺太の南部を新たな領土としてロシアから譲り受けます。









ロシアは満州地方から撤退。

日露戦争は、見事日本の勝利で終結します。


日露戦争の勝利は、結果的に日本を列強の枠組みに押し上げることに成功し、さらに明治政府が目指していた不平等条約の解消を果たしたのです。

また、有色人種の国が白色人種の国に勝利したというのは近代史上初であり、抑圧されていた世界各国の民族は日本の勝利を絶賛しています。



しかし、日本は大陸政策の中で米英と対立を深めていき、米英は日本を敵視して、その排除を模索するようになります。

そして日露戦争期を境に勢いを増した社会主義運動は、後に新たな脅威となる共産主義ソビエトを生み出してしまうのでした。