現在、日本とアメリカ合衆国は、同盟関係にありますが、歴史に疎い人でも「日本は昔アメリカと戦争をした」というのを、なんとなく知っていると思います。
しかし、なぜ日米は戦わなくてはならなかったのか、と言うところになると、詳しく知る人は決して多くないのが現状です。
そこをなるべく簡潔に書きたいと思います。


まず、日米が戦争をしたというのは誤りではありません。
が、米英含む多くの国々と戦争状態にあったというのが実情です。
正確に言うならば日本は、50カ国を超える連合国(United Nations)と戦争をしました。
戦闘をしたのはそのうちの数カ国にすぎません。



なぜ日本はアメリカやイギリスを敵に回して戦わなければならなかったのか?を考えたとき、一方では「アジアを解放するためだった」、また一方では「アジアを侵略したから」という両極端な意見が聞こえますが、その両方は一面的なものであり、戦争の本質を捉えきってはいません。



日米戦争勃発の発端と言うべきは人種差別ですが、まずアメリカ合衆国の中国進出願望でした。

当時の中国は、イギリス、フランス、ロシア、ドイツなどの西欧列強が分割しており、いわば半植民地状態でした。
中国人は、自分の国なのにイギリス人やフランス人に頭を下げないといけない状態だったのです。

そしてその中国市場で儲けていた西欧列強に対し、新参の列強国である日本アメリカ合衆国は出遅れていました。


日本は地理の近さ、日露戦争と第一次世界大戦での功績もあって西欧列強から中国への進出が認められ、晴れて中国市場に入り込み、利権を得ることができました。

ですがアメリカ合衆国は中国へ入り込む余地がなく、「機会均等」を叫んでなんとか中国市場に割り込もうとします。

また当時のアメリカ合衆国は、今よりも遥かに人種差別感情が強く、肌の黄色い日本人という「黄色人種」がアジアで影響力を拡大していくのが面白くありませんでした。

アメリカの反日感情が露骨になってきたのは明治38年に終結した日露戦争後のことで、明治41年に「白船事件」と言うものが起きています。
これはアメリカ大西洋艦隊が全て太平洋に出てきて、日本を威嚇した出来事でした。
対する日本はアメリカ艦隊を歓迎した一方で、その規模を慎重に観察したと言います。


大正13年には「排日移民法」なるものがアメリカで成立し、移民大国アメリカで日本人が締め出され、人種差別意識の片りんを見せました。


昭和6年、満州事変が起こり「満州国」が建国されます。
世界はこれを非難し、当時の国際連盟が満州から日本軍が撤退するよう通告しますが日本はこれを拒否し、常任理事国だった日本は、国際連盟を脱退することとなりました。
なぜ日本は満州に固執したのか?というのは簡潔にいえば3点。

1.当時の日本で賄えなかった労働人口
2.ソビエト連邦の脅威のため

3.経済圏の確立


●満州国の位置。日本は米英に頼らない経済圏を欲し、また日本とソ連の間の緩衝国として「満州国」を成立させました。代償として漢民族の反感を買うこととなります。


昭和12年には日本と中華民国の間の紛争「支那事変」が始まりました。
これに対し、アメリカ、イギリス、ソ連が中国支援へと回りました。
まさに日本は四面楚歌だったわけです。

アメリカ合衆国は日本の中国進行に対し、日米通商航海条約の破棄を通告し、
昭和15年には屑鉄、屑銅の対日輸出禁止を行います。



●左から、蒋介石(中華民国総統)、フランクリン・ルーズベルト(米国大統領)、ウィンストン・チャーチル(英国首相)。中華民国は米英の支援を受け、日本軍を苦戦させました。


この日中の戦いの最中、日本はフランス領インドシナ連邦(現ベトナム・ラオス・カンボジア)
進駐しました。(厳密には北部仏印、南部仏印と分かれますが割愛します)

この対抗措置として、昭和16年にABCD包囲網が形成されます。
ABCD包囲網、あるいはABCD包囲陣とは

America(アメリカ)
Britain(イギリス)
China(中華民国)
Dutch(オランダ)




この4カ国による対日本経済包囲網です。
包囲網の結果、日本は輸出入が完全に封鎖され、石油が一滴も入ってこなくなります。
そうなれば、どうなるでしょうか?
民間の影響も深刻ですが最大の問題は海軍です。

軍艦の燃料は、石油です。
石油がなければ海軍は動けません。
石油の尽きた日本は、戦わずしてアメリカ合衆国のなすがままとなるでしょう。


日本の石油需要は年間500万トン。日本国内で石油は賄えない。
そして備蓄量から、約2年で石油は底をつくとされました。


なぜアメリカやイギリスはこれほどの強硬な措置を取ったのかと言うと、最大の理由は日本が進駐したフランス領インドシナ連邦です。
この先にはイギリス領マラヤ、シンガポール、オランダ領東インドなど、貴重な資源を生み出す植民地がありました。
米英は、日本がこれを奪い取るのだろうと危惧したのです。

そしてこの進駐は重大な影響をもたらし、後に日本は、中国やフランス領インドシナから撤退するから輸入を再開してほしいとしましたが、米英は応じませんでした。



昭和16年8月、米英の間で「大西洋憲章」が公布されます。
この中でアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、
「ナチスドイツとの戦争に協力するつもりだ。それまであと数カ月は日本を赤子のようにあやす」
と発言しました。

これはアメリカが日米交渉を時間稼ぎとしか考えていなく、初めから日本と戦争をするつもりだったという紛れもない証左です。




●アメリカ合衆国第32代大統領、フランクリン・ルーズベルト。
強硬な反日政策を取ったことで知られている。「アメリカの若者を戦場へ送らない」ことを公約して大統領に当選しました。


昭和16年9月、日本は「帝国国策遂行要領」を採択。
「概ね10月下旬を目途とし、戦争準備を完整す」とあり、
「10月上旬頃に至っても尚、我が要求を貫徹しうる目途なき場合に於いては、直ちに対米開戦を決意す」
とまであります。

しかし昭和天皇があくまで外交での妥結、平和的解決を訴えた事で改められ、当時の日本の首相である近衛文麿公が、グル―駐日大使宛てに、大統領との直接会談を持ちかけました。
日本の首相とアメリカの大統領が直接会って話し、日米の誤解を解こうという狙いです。

ところが、駐日大使から報告を受けたアメリカの国務長官コーデル・ハルはこれを公然と握りつぶします。

ハル長官の回顧録には
「その頃には、自分は日米交渉が妥結する見込みはほとんどないと思っていた。私の主目的は、アメリカ太平洋の軍備が整うまで、対日戦突入を引き延ばすことであった」とあります。

日本がいくらがんばろうとも、アメリカは外交妥結をするつもりは欠片もなかったのです。
これを当時の日本が知らなかったのは悲劇でした。


そしてこの後、いわゆる【ハルノート】が公布されるのですが、長くなったので今回はここで切ります。