ウィンストン・チャーチルは第2次世界大戦時の英国首相であり、第1次大戦のときは海軍大臣でした。

前任のチェンバレン氏がナチスドイツへの融和政策を実行するなか、強硬な態度を取るべきだと主張したと言います。


ネヴィル・チェンバレン。




1940年5月ドイツがノルウェー侵攻の「ヴェーゼル演習作戦」を発動、更にはベネルクス侵攻作戦を開始し、僅か1ヶ月でフランスが降伏。西欧のほぼ全てがドイツの影響下となる中、
ドイツはイギリスに対し、「勝負は決した。ここで手打ちにしよう」とイギリスに講和を打診します。
イギリスには講和に応ずるべきだ、とする声もありましたが、大半は徹底抗戦を支持し、チャーチルもまた「ドイツが全ての占領地から軍隊を撤収し、原状回復するならば講和に応じてもよい」と返したという話があります。




ウィンストン・チャーチル

対独のみならず、対日本でも指揮をとりつづけたチャーチルは戦後、著書の中でこのように述べています。

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日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。
笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。

しかし、これでは困る。

反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろという。

無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、

「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことをいうとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」

と言って突っかかってくる。
 
英国はその後マレー半島沖合いで戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。

日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。

日本人は外交を知らない。

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外交下手な日本を皮肉りつつ、日本は一度怒れば恐るべき力を発揮する国だということを述べています。

大戦前は所詮有色人種と軽視していた日本に、イギリス最新鋭の戦艦が瞬く間に沈められ、イギリスが東南アジアに所有していた植民地が、日本に占領されてしまった。

このことで東南アジアにおけるイギリスの影響力は極めて弱化し、戦後になって「大英帝国の至宝」と言われたインドの独立を認めざるを得なくなったばかりか、英国経済を潤わせていたマレーシアの独立も許すことになったのです。