私は言葉というものに不思議と惹かれる。私にとって言葉はただの道具ではない。

だから、ずっと外国語に関わってきた。昔は単に外国語が好きなのだと思っていた。

 

外国語は大好きだけれど、実は私が好きなのは言葉という存在そのものだということに、気づきつつある。

 

言葉に、どれだけ自分を乗せられるのか。どれだけ表現できるのか。

発せられた言葉に、何が込められているのか。

言葉の意味は一人一人違う。同じように見えても、一つの事象を捉える視座は、人の数だけある。

2歳の息子にとっての「りんご」

私のとっての「りんご」

あの、一般的には赤くて美味しい丸い果物だけど、2者にとってこの概念の広がり方は恐ろしく違う。

赤いとは限らない(深紅?明るい赤?黄色?緑色かも?)。

美味しいとは限らない(食べられないほど酸っぱいかも)。

果物とは限らない(ディスプレイかも)。

木になってる?箱の中にある?家の果物かごにある?丸ごと齧る?歯に挟まる?ウサギ型に剥いてある?白雪姫?青森の農家?冬?秋?おじいちゃんから送られてくる?

人の中の「りんご」の意味の広がりは無限。

人はね、それを器用に他の人と共有できる形に加工して使う。

 

軽く発した「キモいからやめろ」を、軽く受け取って流す人もいれば、とても傷つく人もいる。

 

言葉の意味には、それを扱う人の経験や性格、相手との関係性が大きな影響を及ぼす。

そんなことを考えすぎると、何も話せなくなる。

でも何も言わなければ、伝わらないことが多すぎる。

そんな場面を何度も経験してきた。

 

言葉は扱う人の存在を背負った使者。

言葉自体、生命体のように感じる。