ユニバーサルミュージックと新たな契約を結んだ中森明菜が2002年12月、
デビュー20周年を記念して、
自身と音楽プロデューサーの武部聡志との共同プロデュースで発売した初のセルフ・カバー・アルバム「Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド」。
過去のヒット曲を再レコーディングすることについて、
明菜は当時、「今やらなければ一生できなくなる」という思いがあったとし、
20周年のタイミングに合わせ「心機一転、自分の歩んできた道を振り返った」と語っていた。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240605/22/lingtositetk1223/20/d9/j/o0663043715447912305.jpg?caw=800)
同作はオリコンの週間アルバムチャート(12月16日付)で初登場8位にランクイン。
明菜のベストテン入りは「ZEROalbum〜歌姫Ⅱ」が発売2週目で10位にランク入りしたが、
初登場8位は1995年7月21日発売のオリジナル・アルバム「la alteración」の7位以来、7年半ぶりだった。
明菜も仕上がりには納得していたようで「歌って、
思い出を作ってくれるものじゃないですか。
時間もそうだし、呼吸や空気、それに香りも…。
その歌に、宝石のように、ある時間までをも、皆さん大事にしまっているんですね。
その思い出を、絶対に崩さないというのが大前提。そして宝箱の中で、宝石が増える形にしたかった。
減って足すのではなく、新たに増える以外は絶対に考えられなかった」とした上で「皆さんに喜んでもらうのが私の仕事、中森明菜という歌手の」と語っていた。
当時、明菜をライフワークのように取材していた元日刊スポーツ文化社会部長の笹森文彦氏は「私も1989年の事件、
復帰会見、その後と取材してきましたが、
明菜さんに『あの頃は追い掛け回しまして』と言うと、明菜さんは『いえいえ』と笑顔で応じてくれました。
おそらく明菜さんは私を初対面の記者と思ったのでしょう。
明菜さんを追い続けた時間は『スキャンダルさえ、時代のエクスタシー』とわれわれも確信していた。
そんな中で迎えた20周年に発売された『歌姫ダブル・ディケイド』での明菜さんの表現力は本当に素晴らしく、
明菜さんの匂いはまったく消えていなかった。
それが、結果としてアルバムセールにも結びついたと思っています」と話す。
一方で「歌姫ダブル・ディケイド」発売の裏には「NHK紅白歌合戦」にカムバックする狙いもあった。
「アルバムの企画は8〜9月ぐらいに持ち上がったんです」とは当時を知るレコード関係者だ。
「『歌姫Ⅱ』が好調で当時70万枚を超えるセールスになりましたからね。
当然、この流れを維持するためにも、
年内にオリジナル・アルバムを出す計画が浮上していました。
そんな中で、明菜の総責任者だった寺林(晁)さんからだったと思いますが、
明菜のワーナー時代のヒット曲をセルフカバーしたアルバムを出そうという話が出てきたのです。
もちろん、明菜もやる気になっていました。
寺林さんのことなので『紅白』に明菜を出したかったはずで、
NHKとの間でも話が進んでいたのでしょう。
ただレコーディングも含め、
時間がなかったことは確かです。
アルバムの制作は寺林さんの関係もあって武部さんの音楽事務所に委託し、
ギリギリのスケジュールで動いていたように記憶しています」
そういった裏の戦略もあったのか、
この年の「紅白」で明菜のカムバックが決まった。
11月26日、東京・渋谷のNHK放送センターで「第53回NHK紅白歌合戦」の出場者が発表された。
配られた発表資料には「中森明菜」の名前が明記されていた。
14年ぶりの復活劇に会場内からも驚きの声が巻き起こった。
明菜は「デビュー20周年の節目の年に『紅白』という晴れ舞台に立てることを大変光栄に思います」と喜びのコメントを出した。
(芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)
■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE―情熱―」などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。