エリック・ロメールの「夏物語」(1996)や、
グザビエ・ドランの「わたしはロランス」(2012)、
フランソワ・オゾンの作品群(最近作は「Summer of 85」2020)で日本でもお馴染みのメルビル・プポーが、
2024年のフレンチ・シネマ・アワードを受賞した。
 


本賞は、フランス映画を世界に宣伝する公的機関のユニフランスにより2016年に創設され、
毎年フランス映画の宣伝に貢献した俳優や監督、プロデューサーらを対象に与える栄誉賞だ。
10歳から子役として活動をはじめ、
およそ40年のキャリアを持つプポーは、
自国で名実ともに評価の高い俳優であると同時に、ウディ・アレンやラウル・ルイス、アンジェリーナ・ジョリー、ジェームズ・アイボリーなど、
海外の監督ともコラボレーションを果たしてきた。
またフランス映画祭で初めて日本を訪れて以来、たびたび来日している日本贔屓でもある
 



授賞式はフランスの文化省でおこなわれ、
今年文化大臣に就任したばかりのラシッド・ダチ氏からトロフィーが授与された。
プポーはリラックスした様子で、
ジョークを交えてスピーチをおこない、
「この仕事を始めた頃から、
俳優なら自国で認められるだけでなく、
その作品が海外にも配給されるようでありたいと思っていた。
海外でも広く作品が目にされる機会がもたれるようでありたいと。
ユニフランスのような団体の活動のおかげで、
僕の仕事が海外の観客の目にも触れる機会があることはとても光栄なことだし、
これまでニューヨークや日本など、
さまざまな国の映画祭に連れて行って頂き、
素晴らしい体験をすることができた。
それによって僕は、たとえばカマンベールチーズのようなローカル・プロダクトを超えた存在として、認知してもらうことができたと思う」と語り、場内を沸かせた。


後日、映画.comの取材に応じたプポーは、その長く多彩なキャリアを振り返ってくれた。
 
「僕が初めて映画のセットに立ったのは11歳のとき、ラウル・ルイスの『La Ville des pirates』という作品で、
ポルトガルで撮影をした。
映画自体も夢物語のようだが、
ルイスの現場はまるで宝箱をひっくり返したような楽しさに溢れていて、
僕は本当にわくわくした。
それが俳優になりたいと思ったきっかけだった。もちろん、
その後はいつもルイスのような現場のわけにはいかなかったけれど(笑)、
ドランやオゾンのような素晴らしい監督たちと出会えたことは、
とてもラッキーだった。
『ぼくを葬る』(2005)のときは、
余命いくばくもない主人公を演じるために減量をして、
役作りに身を捧げ、共演のジャンヌ・モローからきっとセザール賞をもらえる、 
と褒めてもらえたけれど、
蓋を開けたたらノミネートすらされなくて落ち込んだ。でも逆に賞がすべてではない、
やりたいことをやろうと思えるようになった。
ある時点まで、
僕は“感じのいいパリジャン”というイメージを持たれていて、
とくに若い頃はそういう役柄ばかり話がきていた。
それを積極的に変えていきたいと思い始めたのが10年ぐらい前。
いまはちょっとサイコパスや影のあるキャラクターなど、
暗い役柄も演じられるようになったことが嬉しい。
これからもある一定のイメージにとらわれないようなチャレンジをしていきたいと思う」