令和3年3月右中大脳動脈瘤破裂コイル塞栓術令和4年7月再出血クリッピング術高次脳機能障害、左同名半盲、アロディニアと闘っています。
自分の力で足が持ち上がるようになってからリハビリ病院への転院の話が出てくるようになった。主治医は早く始めるのが肝心だから僕のできることはやるから頑張れば動くようになるからと励ましてくれた。わたしの場合1人身の上親族は遠方なので転院にあたりハードルが高かったと思われる。住民票のある県の隣の県に入院していたため病院探しにはソーシャルワーカーさんが随分尽力してくれた。コロナ禍で、入院制限があったのもあり、受け入れてくれる病院がなかなかない。どこにしたらいいか迷っていた時にある看護師さんが言ってくれた『どこに行くかではない。いつ行くか。受け入れてくれる所に行きなさい』愚痴は吐いたものの、急性期の病院では、随分とおせわになりました。感謝しかありません。
ご飯を食べるようになって言われるようになったころ。左むし左むしと看護師さんたちがこそこそ話している。??なんだろう左虫って。と思っていた。左のご飯残ってるよと言われトレイを見ると左側のご飯が毎回残っていた。簡単にいうと私は右中大脳動脈の動脈瘤の破裂であったため、優位脳の右脳を左脳が助けてくれないために、私の左側を認識しなくなっている。これが左空間半側無視と言うらしいです。ググると詳しく説明が書いてあるが近しい人に説明する時にはこう説明している⇩ぱっと見るとなんの違和感もなく左側の存在が消えている。例えば3人並んだ人の一覧左端の人が消えている。だけども、ちゃんと背景は存在する。例えば職場だと後ろのコピー機は見える。(左端の人が黒塗りになっているわけでも型抜きのようになっているわけでもない。まるで消しゴムで消したような感じ)前から歩いてくる人がぶつぶつ言っている。あーイヤホンで話してるのかしら?と思ったら左側に人がいた!ってこともあった。道を歩いている左側に分岐が現れるように標識はあるのに分岐がないじゃん!食品庫に缶詰を取りに行く。買ったはずの缶詰がない!あ、あった左端に!ってな感じです。この症状については自分の左が欠けるという特性を理解してからは辛くなくなってきたように思います。ただ、退院してから思うこと。なぜ急性期の病院もリハビリの病院でもきちんと私の後遺症について説明をしてくれなかったのだろうと。なぜ患者自身がこういうことが起こるのだろうとググらないとならないのか。大脳半球には優位性があって‥なんて話を求めない人が多いからなのか、どうせ理解できないと思われているからなのか‥。少なくとも理屈っぽい私は自分の脳みそに起きていることを理解した方が断然受け入れられた。
今回の再出血も死の恐怖はなかったように思います。ただ回復過程では死んでもおかしくなかったなとは思うようになりました。4〜5センチの血腫を取り除き瘤にクリッピングを施され10時間近くの手術を終え明るい部屋で目が覚めました。特に痛いと言うこともなく、ただ寝ていました。兄に会いたかった。姪に会いたかった。眠るといるはずのない兄の声がして、いるはずのない姪の声がした。看護師さんにあそこにお兄ちゃんがいるから会いたい。姪がいる会いたいどう伝えていた事を覚えている。目が覚めて主治医の手足を動かしてと言われても手足が重くてびくともしなかった。それが左半身麻痺だった。麻痺と聞いてもどんな感覚かわからなかったが自分自身がなってみると重くて重くて動かない。だけど何かしなきゃと言う気持ちで寝ている間太ももの筋トレ(セッティング運動)を気が向けば行っていた(できてるかどうかは別として頭はやろうとしていた)数日して数ミリ足が動いていると主治医が手を叩いて喜んでくれた。まだ車椅子に乗ることができる前おしっこの管を抜くから、ベッドの上でおしっこしてねと。なかなかでないしたいのにでない。主治医は脳をやってるからね、神経因性膀胱っていうんだよ、って言っていましたが、健常者であろうと、ベットの上でおしっこしてと言われて普通にできる人っているのだろうか..。結局は、内服薬を飲むことでようやくおむつにできるようになったそれでも、退院までに数回導尿をしていただいた。おしっこの管が抜けた頃室内のリハビリからリハビリ室へのリハビリへ。やる気は常にフルスロットルだけど動かない状態。それでもリハビリの時間が楽しみでしょうがなかった。今でも不思議だがヤケクソと言うのか捨て鉢と言うのかそう言う気持ちにはなったことがなかった。これをやっておいてと頂く宿題を喜んでこなし、ただただリハビリの時間を楽しみにした。食事は鼻から続いて流動食へ。それでも喉の麻痺があり混ぜてしまうため耳鼻科の先生の往診があった。カメラで見てもらいながら飲み込むと、飲み込むと上手く嚥下が出来ずに肺にサラッと流れてしまうとのこと、それから毎日体をまっすぐ顎は下向きで右側を意識して(右側は機能していた)飲み込無練習をした。飲み物もゼリー状かとろみがついていた。その時一番飲みたかったもの‥オロナミンCでした。
もしこのブログを読まれる方に医療関係者、それも脳神経に関わるかたがおられるならば下記のことを言いたい。脳に出血を起こしてぼんやりしてるから何もわからないどうせ覚えてないだろうと思っておられるかもしれませんが、全て理解しています。覚えています。私も急性期病院でぼんやりしていた時に言われたことでも覚えています。ナースコールを押す。『なんでまとめてさっき言ってくれないんだよ。この病室一番遠いんだよ。』どさっという音。布団の上に何か置かれた。感覚のない自分の左腕だった。左腕を投げられたのだった。自分の間違いかと思った。右腕で探ってみる左腕しかなかった。初めてなった片麻痺で初めて乗る車椅子。移り方も習ったことないのに『そんなに体重かけてこられちゃ危ないでしょ。僕だからいいけど、小さい看護師さんだと一緒に倒れちゃうよ気をつけてよ』急性期の病院で何度も悔しい思いをした。聞こえてない覚えてないと思うのだろう。忙しいのだからつい出ちゃうのも仕方がないとは思う。頭がぼんやりしてるから言い返せない。翌日その看護師に昨日はごめんなさいと伝えるとえ!覚えてるの?聞こえてたの?と。中には手が臭いと呟いた声を見逃さず、何かの折に手を洗ってくれる看護師もいた。相貌失認があったのか、顔が覚えられないが声で彼女のことは覚えていた。彼女の顔と声は2年経っても覚えている。
今回は頭痛は出血の為だと分かっていたし、救急車で運ばれることもわかっていた。今回は救急車の中で『血圧150。眼球上方固定』と救急隊員さんが話す言葉が耳に入った。あぁ、こぶから出血してるんだとわかった。同乗してくれた上司が、事情を説明し、病院が受け入れますと言ってくれたようです。コロナ禍で、いろんな病院でベッドがない状態でしたが、予め必ず受け入れると言ってくれていたこと、検査入院の前の日であることを伝えました。怖いとかそんな気持ちは少しもなく、ただぼんやりと救急車のベッドは硬いなとか、吐き気がするとか考えていたように思います。上司に誰に連絡とったら良い?聞かれ、親友2人と兄の事を伝えた気がしますが、次に目が醒めたのはNICUでした。でも、よくは覚えていません。
『敗者復活戦』というブログを書いてその後数日後に再出血を起こし現在2年が経過しています。検査入院の前日でした。色々な後遺症に悩み苦しみブログも放置状態ですでしたが、色々な方のブログを拝見して知識をいただき、とても役に立った経緯があるため、どなたかの希望につながれば役に立てればと思いブログを再開することにしました。私の抱えている後遺症に関して、情報が少なく世間の理解もなかなか得難いため、苦戦してきました。ググろうにもどうやって欲しい情報に辿り着いて良いかわからない。私個人の体験談でしかなくまた、正しく伝えられるかはわかりませんが、何かのワードが突破口になればと思います。
脳外科を4月に受診した時に次の7月(2022年)で1年おきの受診にしようと言われていました。ところが!今回のMRAの結果、『コイルが縮んでいるのか瘤が大きくなっているのかMRAで診断するには限界なので入院してカテしましょう。先延ばしにはできないので早めに入院してください』と言われました。前回、再出血は2%くらいの確率って言われた気がするんですけど、話を聞いていると確実に%は上がっているようです。今まで膀胱鏡も受けたことがあるし、静脈麻酔下ではあるが内視鏡エコーを受けたこともある。一番気持ちが悪くて一番嫌な検査は脳動脈のカテーテル検査でした。カテーテル検査自体も気持ち悪いし、その後のベッド上安静がつらい。そのカテーテル検査いつかはあるのかなと思ってたけど1年後にあるなんて‥。「先生、次は開頭って言われてましたが‥」コイルにするかクリッピングにするか、検討会をした上で再入院になるとのこと。もう、コイルが縮んだとかドキドキするのは嫌なのでいっそのこと開頭でクリッピングしてもらう方が心配事は無くなりそうな気もします。でも、先輩ブログを読んでると梅雨などに傷が痛むこともあるよう‥。この一年色んな気持ちを封じ込め耐えてきた心が折れました。病院でも職場でも友人の前でも泣いてしまいました。再破裂する前に見つかってよかったと、病院はじめ色んな方に言ってもらえました。やっぱりもってるんだよ!って。貧血から気がついて子宮全摘を行ったこともすごく大きな意味があったように思います。他の子宮全摘の経験者のブログを読むと精神的にもやられ体もしんどいと書いてありますが私は気持ちも体も楽になって本当にやってよかったと思っていたところ、もし頭の再手術になったら貧血のままだと頭の手術も難しかったかもしれない。そう思うと本当にとってよかった。とりあえず3日入院、カテ頑張って耐えます。
うちの会社は夏休みはの3日付与される。コロナになってからは旅行することもなくなり、この2年は単発で休みをいただいていた。今年は実家に帰り、施設の父を連れ出して父の好きな鰻を食べに連れて行こうと兄と計画している。実家に帰ったら、雲仙の外乗にも行きたい。7/1の1ヶ月検診で8月末の乗馬🏇🏇🏇可能か聞いてみよう❗️退院時は乗馬は3ヶ月開けてね!と言われてたけど。ティアラちゃん元気かなぁ〜2年は行ってないから久々に乗馬したら体バッキバキだろうなぁ
術後ひと月経ちました。なんなら1年経ったくらいの絶好調さ。仕事も残業もやっていますこのひと月にレルミナのせいなのか高血圧の値になったりホットフラッシュで滝汗かいたりしていますが、気持ちは反して晴れやかな気分です。ほんま悪いものは出尽くした気がするもしかすると更年期がやってきたかもしれないけど55歳までは生理は来るよと言われていたので前後5年なのでまー仕方ないかのぼせがくると一気に血圧が上がるのが怖くて現在、アムロジピン2.5mgを飲んでいます。『血圧の薬飲み出したら一生飲まなきゃなんないから嫌だ』とか言う人もいますが、血管の拡張作用もあるんだから、私は一生飲みたい!くも膜下で退院したすぐはふらつきがひどくて、血圧の薬やめたい!って思ってたけど、今は所望してる(笑)病は気から気持ちを前向きに腐るコトなく頑張ります
手術後腰痛があり、元々腎結石と6センチほどの嚢胞があるため受診した。結果なんの問題もなかったのだけど(どんなに大きくても嚢胞のせいで腎機能は落ちないから安心してとのこと)エコーの時に筋腫が取れて綺麗に膀胱が映るようになったよと言ってもらえた。ほんま悪い奴がおらんくなった
仕事復帰しました。くも膜下の時は時短勤務を取らせていただいてふた月ほどで通常勤務に戻しました。今回は入院日数も短いし、悪いところをとっただけだったのでそんなに心配していなかったのですが、ご飯を食べからの腸の痛みがあったのでならしで休みを切り上げて出勤したいと上司に申し出たところ、休みなよーと、あっさり却下され、あーあ何するかなぁと思っていた金曜日。『よかったら土曜日時短で来てくれないかな?』と連絡が入った。暇でウズウズしてたので行きます!喜んで!と答えて出勤しました。そして今日、フルタイムで完全復帰してきました。体も傷も元気な今、重たいものを持とうとして同僚から『ダメです!』『座らなくていいんですか?』と声をかけられ、あぁ、重たいものはダメだったんだと思い出す。会社では『これちょっとやめときまーす』『これは全然平気です。』等々きちんと伝えるようにしている。
出血後10ヶ月目には血圧のコントロールさえしっかりしていれば問題なし。と言ってもらえた。婦人科の先生は血圧140以下でコントロールと脳外科の先生から指示をもらったよ。と言っておられた。内科受診の際に伝えるといつもどれくらい?と言われて困った。血圧の薬が中止になって、コントロールできていたので測らなくなってしまっていた。病院で測っても110ほど。測ると気になるのであえて測ってなかった。『まぁ150が三日続いたら受診して。』内科の先生からきちんと測って!と言われて朝晩測りはじめた。上が130ほど。おや??あれ??こうなるとびびりの私が顔を出す。ホルモン剤のせいかな?五十肩のせいかな?夜は肩が痛くて眠れない。ある日は150!!!ビビりすぎたので隠し持ってたアムロジピンを内服する。翌日クリニックの先生に電話する『150が怖くてアムロジピン飲んじゃいました』って伝えると、受診を勧められたので受診してきました。『ホルモン剤のせいでも肩こりでもないよ、君は手術が不安なんだよ!怖いでしょ?とりあえず抗不安薬出すから飲んでみて。あとお守りにアムロジピン出しとくからいつも持ってたらいいよ。』そうかなぁー。と思いつつ抗不安薬飲んだところその日の夜は106まで下がってました。ははは!先生良くわかってる!不安なせいだとわかったたら少し安心しました。ただ、抗不安薬や向精神薬、睡眠薬を飲むことは逆に頭への影響が心配なので飲みたくないので飲まずに手術まで頑張りました。私は大丈夫と暗示をかけて。手術後2〜3日も120くらいだったんですが、家に帰ってリラックスすると100〜110ほどに落ち着きました。婦人科の先生もホルモン剤の影響で血圧は上がることはないと思うので思うように下がるかはわかりませんよって言われたんですけど、私はホルモン剤のせいで血圧が上がると言う暗示にかかっていたようです(笑)なんならプラセボでラムネ飲んだって血圧下がりそうです(笑)生理が来ることはないけど血圧をちゃんと測って上がりそうな、更年期かな?っていう傾向を掴んだら降圧剤飲めば大丈夫だと今は思ってます。病は気から。私は一生分の病気をしたのでもうこれからは上々です
入院手術って何用意するの?ってよく聞かれます。私は実家も遠い独身なので似た境遇の人によく聞かれます。緊急性のある入院のことを結構聞かれます。くも膜下の時にたまたまバッグに入っていて助かったものが数点。・保険証・携帯の充電器・インターネットバンキングのカード・眼鏡(私はコンタクト派ですがたまたま眼鏡が入っており助かりましたコンタクトは承諾の上捨てられました)・ファブリックミスト私はこれで何とかなりました。↑究極。前にも記載してますがiPhoneの顔認証は優秀なので、気を失う前に暗証番号を伝えて、連絡先を伝える。そうすれば後の必要物品は病院が貸してくれます。知人が持ってきてくれます。お金だって高額であれば病院が進んでどうすればいいか教えてくれます。入院費は後払いなので私はインターネットバンキングで友人に送金して持ってきてもらいましたが今時、クレジットがあります。(脳外科はクレジット不可でした)自分自身も入浴できず臭い上、寝具も臭うことがあります。ファブリックミストを振り撒けばまぁ耐えられます(笑)私は自宅ではタオルもパジャマも毎日交換しているので入院中もパジャマもタオルも毎日変えなきゃと今回の入院で準備していたら海外にでも行くのか!という荷物になってしまったので、2日に一回でいいかーとパジャマ減らしたんですね・・ちゃんと頭が患者モードになるんです❗️毎日変えなくても平気でした。この度、耳栓も準備しました。隣の人の寝息で眠れなかったら寝なきゃいい!疲れたら寝るさ!って思ってたら耳栓も使わずに寝てました(笑)夜眠れなくなるので昼間は殆ど昼寝してません。今回入院中はテレビも見ずに小説2冊読み切りました。小説は5冊くらい持っていきましたが流石に手術後2日ほどは読む気力がありませんでした。吸い飲み?は今の時代100均でペットボトルにセットできるストローで充分。パンフレットに吸い飲みって書いてますがあんなもの家にあっても使えない。キャリーケースで荷造りしてたのですがどんな状態で帰ってこれるかわからなかったので、キャリーケースで帰ってきたら自宅に入れる際の拭く動作に負担を感じるかもしれないと、前日急遽布製のバッグとIKEAの大袋に詰め替えました。結局元気に退院したのであのままでよかったってことと、逆に二つも下がると結構な重さなので腹圧のことを考えて急遽親友に迎えにきてもらいました。ただ、友人にも伝えるんですが家に取りに行ってもらう場合自分がどこに何があるか把握してないと持ってきてもらえないのでそこ重要❗️と伝えてます。
手術で切り取った子宮の写真を撮ってください。とお願いしたけれど携帯電話は預かれませんとの回答。そりゃ困った友人に来てもらったら撮れますか?と聞いたところあなたがいいと認めた人ならば構いません。と言ってもらえたため、友人に急遽連絡をする。親友はありがたいことに受けてくれ写真撮影をしてくれた。手術は4時間。摘出した全体像は掌2個分より少し大きいくらい。子宮の中に突き出した4センチと外に突き出した4センチ(いずれも子宮の中から発生した感じ)子宮の外に子宮の一部ではなく筋腫のぼこぼこの塊が拳大??子宮は小さな筋腫で囲まれていた。第一印象。この手術はほんまにやってよかった。こんなグロテスクな塊がお腹の中にあったことそして子宮の中に突き出す筋腫、拳大の筋腫の塊が全て育ったら身体はボロボロになっていただろうな。と思いました。子供を産む年齢でもないのでなんの感情も持ってなかったのですが本当にやってよかったーと言う感想です。手術当日から腸の不快感が強く、ご飯を食べると30分後くらいから痛みが出る。排便時も痛みからしばらくして排便する感じが続いてます。それでも、だいぶん楽にはなってきたのだけれどこれは手術の際に腸を鉗子で避けながら手術したせいですと言われた。必ず治ります。と言われたので不快ながらも気にしてない。尿意を強く感じるけれどもそんなに尿は溜まっておらずえ??と言うことがある。これも手術で触っている影響と言われた。お腹の中で幅を利かせていたやつを取り除く手術だったんだから仕方ないと結構楽天的にいます。お腹には1センチ程度の傷がありますがそんなに言うほど痛くはないしなんならもう働けそうなんだけれども、上司からゆっくり休みなさいよ、とやんわり拒否られた(笑)術後も傷の痛みより、テープかぶれが気になって眠れないこともあった。これも精神的なものなんだろうか・・家に帰ったら軽減していた・・
私は腰椎の横突起骨折が離開したままなので、仰向けに長いこと寝ていると腰痛が出てしまいます。長いこと立ちっぱなしもそう。ヘルニアの人たちと違って姿勢を変えると直ぐに痛みは止まります。夜間しっかり寝返りができるので腰痛も軽く、傷の痛みもそれほどなく入院期間を終えました。傷の痛みでロキソニンを飲むことはなく、頭痛で飲みました。ドレーンも手術翌朝には抜け歩行許可が出てからは支障なく歩けました。歩き初めに傷が引っ張られる感じはあったけれど大した痛みではありませんでした。手術直後から痛みはない?と聞かれてもお腹が渋っているような痛みがあると答えていました。(そういや)主治医曰く、手術の時に腸を鉗子で避けながら手術してるのでその痛みですひと月半〜3ヶ月ほどで治りますよと言われたんですが、退院後1週間の今も食後30分がピークの痛みがあります。まぁ、耐えられる程なので腸不快ダイエットだ!と友人には言いながら過ごしています。傷の痛みより頭痛や血圧の方が私にとっては心配の種だったのですが、術後2日もすると120〜130だった血圧が100〜110におさまるようになりました。気持ち的なものがなくなったのかなぁ。手術1日目にはこの手術は正解だったんだろうかと140まで上がった血圧の値を聞いてブルーになりましたが血圧の値が安定し始めたら、不安な気持ちも吹っ飛びましたもう生理に苦しめられる事もないし、なんたって少なくとも子宮のがんにはかからないんだ!子宮脱にもならないんだ!と前向きな気持ちになってます
午後13時からの手術のため朝ごはんは🆖アルジネードウォーターなるものを四本指定の時間までに飲んでくださいとのこと。空腹かつ、口渇の体に染み渡りました。補水液みたいな感じらしいです。頭の時は刺激を与えないように自分でしないようにって感じだったので自分で歩いて手術台に乗る。というのが驚きでした。今回も『先生点滴痛いです。』からうとうとと気持ちのいい睡眠をし目覚めたら病室でした。起きた後も特にしんどくないし、身体中力が抜けたからかしばらく最近の悩みの五十肩がなくなってました。頭の時は激痛に耐え、腰痛(カテーテルの挿入口を保護のため、数時間仰向けで片脚動かせませんでした)に耐えとにかくしんどかったんですが、2回ナースコールで横向きにしてください!とお願いしましたが、自分でやって良いですか?というとあっさりいいよと言われたのでそれからは自分で寝返りを。膝を立てると腰痛も和らぐのですが、やっぱり仰向けは30分くらいが限界でした。横向きにしていただくと背中にクッション入れてくださるのですが、私は抱き枕にしてください❗️と希望を伝え抱き枕に。これがなかなか楽でした。背中にあっても自分では調整できないので・・ホットフラッシュの時に対応できない(笑)
くも膜下出血から1年経ちました。今はもう15ヶ月目。何度も再出血の恐怖で震えていた。今は(子宮全摘も終わったし)もう大丈夫なんじゃないかな?と思っています。もう一生分の病気は終わった(はず)あと、この1年で周りで親が亡くなった知り合いが4人いたので、やりたい事食べたい事は後回しにしない。って強く思うようになりました。それと今世で徳を積まなきゃ!(この時点で悪い人笑)あとひとつ不思議な心境なのですが、私の兄はかなりのビビり。あの人(兄)じゃなくてよかった。と思うようになりました。兄弟で病気を分け合うとは思ってないけれど兄はMRAの結果何もなかったそう。あの人には耐えられない痛みと絶望感だったと思う。私は落ち込むことはあっても乗り越えられると神様はちゃんと見ていたんだなと思う心境に変わりました。両親より先に逝かなくてよかったとも強く思うようになりました。パートナーがいればパートナーじゃなくてよかったと思ったと思います。私でよかったと言う考え方はいいのか悪いのかわからないけれど少なくとも今はそんな気持ちです。これからも自由に元気に頑張ります♪
腹腔鏡でやって欲しいと伝えたところあっさりと『やってくれる先生はこの辺りだと2人。だけど1人は転勤でどこに行かれたかわからないので1人しかいないかなりぼこぼこなのでそれでもやってくれるかわかりません』紹介されたO病院は職場の近くで、聞いたこともない病院だったのだけど、自宅からは30分程度まぁ許容範囲。O病院の先生はとても優しく丁寧に説明していただいた。この病院で初めてMRIを撮ったのだけれども、筋腫が30個以上存在しており、子宮の周りがボコボコになっている。腹腔鏡下で膣から取り出す形になるけれども出ないとなったら切り刻んで出すから腹腔鏡でなんとしてでもやります。と言っていただいた。ここでも、他の治療法の説明を聞いたのだけれども、結局子宮をとってしまわない限り、再発の可能性があることを再認識。頭部のMRI(MRA)ではあんなうるさい中うたた寝して自分のいびきで起きてしまうこともあるんだけれど、腹部のMRIは呼吸がしにくくてちょっと嫌でした1度目の受診でジェノゲストを倍量に。ジェノゲストの倍量で次の生理からなんと生理が止まらなくなってしまった。量はまぁ少なかったし、次の受診あるしまぁいいかと。MRIの結果を聞いた最後の受診でレルミナに変更。レルミナ飲むと飲み初めに大量出血を起こすことがありますと説明を聞いた。あと、頭痛。リュープリンの内服版みたいな感じなので続けられないと思ったら電話してください、その時はディナゲストに変更しましょうと。いや、なんとしても頑張りますよ手術までひと月。子宮を固くして手術をやりやすくすると聞いて我慢のしようがあるでしょう。と心に決めた。なんとしてでも飲み切ります(薬高いし・・)暫く大量出血とはおさらばしていたので大出血を起こした時はびっくりした。それが3日ほど。聞いてたけど想定外なんだけど・・・。オペ前に貧血ならんかなぁと心配したもののなんとか止まりました。頭痛や体の不調はかなりひどく最後は50肩もあり血圧まで上昇❗️レルミナ飲んだことのある方はご存知かと思いますが何しろ高い!35日分くらいで9990円也。そりゃ飲み切りますよ、高いもん。うちの母がアルツハイマーの初期で飲んでいたアリセプトが一錠500円に比べれば安いけれどもこれは続けるのは厳しい❗️
知り合いの看護師さんに婦人科系のことに詳しい人がいて相談した。『もうねー、開腹で取ろうと思って予約してきた!早く生理無くなって欲しいし、薬やめたい!』「腹腔鏡でした方がいいですよ?無理なんですか?痛みが全然違いますよ」と。え?そうなの?と、子宮全摘を開腹で行った子、帝王切開を行った子に連絡してみる。え?痛いよ。筋肉切るんやでそりゃ痛いよ。脊椎麻酔って自分で痛み止めのボタンを押して痛みコントロールすんねんけどね、痛いよ。あっさり、やっぱり腹腔鏡にしてください。と手術を取り下げに行きました(笑)
リュープリンからジェノゲストの内服に変わった。26日周期で生理は来る。律儀なやつだ。量は減ったとはいえきっと普通の人の量。実は婦人科のB先生に、根治の可能性の低い手術を勧められたこと、診察中にどんな流れだったか忘れたけれども『あなたが過多月経って言ったんでしょうだから私は悪くない』的な発言をされたため不信感が湧いていた。説明が少なかったため余計だったと思う。内科のクリニックの先生に納得がいってないこと、ホルモン治療が嫌だと言う話をしたところ『うちに来てる婦人科の先生にセカンドオピニオンになってもらったら?』と言っていただいた。クリニックに来ているC先生も女性。可能性の低い手術をするのも嫌だしホルモン治療も嫌だ、治療で頭痛なんて絶対に嫌だ等々話をしたところ、『貧血治療で対応してもいいと思います。ホルモンを辞めたり飲んだりでも構わないと思います。子宮頸がんで引っかかっているなどあればいっそのこと全摘がいいと思います。』と言うことを言われました。実は、前々回?くらいの健診で子宮頸がん健診で軽度の異形成であると言われていたため全摘しようかなぁとこの頃から思い始めました。相性って大事