●『真田丸』が面白かったポイントの一つは、
激動の時代の中で、先を読めない主人公たちが懸命に生き抜こうとしていたことでした。
作り手の一人として自戒を込めて言うと、主人公は先見の明があるように描きたくなるものなのです。
例えばまだ天下人になる前の秀吉に会ってその器の大きさを見抜き、天下をとるであろうと予見するとか。
光秀に会って裏切るであろうと感じるとか。
関ヶ原合戦の趨勢を事前に予見するとか。
そうやって、人や流れを見る目がある=ハイスペックのように主人公を設定したくなるんですね。
ですが『真田丸』では信繁も昌幸も、そういう嗅覚はありません。
だから、激動の世がどうなっていくかを予見できず、
結果的に敗者側についてしまったり、荒波に飛びこんでしまうこともある。
その代わり、荒波の中で懸命にあがき、そこで道を切り開く力と知恵と逞しさを持っている。
その方向性がブレなかった脚本が見事でした。
●そういう「主人公に人を見る目・時代の流れを読む洞察力を持たせないといけない」もそうですが、
私も作り手として強迫観念があったりします。
さんざん「主人公は人(他の登場人物も、読者や観客も)を惹きつけなくてはいけない」「主人公が物語を動かさなくてはいけない」って叩きこまれましたから。
ですから失敗作としてよく挙げられる『お江』も、やりたい気持ちはよく分かるんですよ。
「主人公は時代の節目に立ち会い、行動と言葉で歴史的人物に影響を与え、時代が動くのに関与させなければならない」という強迫観念。
確かに『お江』は、お江が本能寺の変直後に明智光秀と出会って、
「なんで裏切ったのか!それに大義はあるのか!?」(←うろ覚え)みたいな言葉を投げつけ光秀が動揺し、揺れる心情をお江に吐露する場面があったりして、
おいおいお江って当時10歳くらいだろ!と苦笑することが多かったですが、
でももし自分が書く立場だったら、「主人公が物語を動かさなければ」強迫観念で、同じ轍を踏んでたかもしれないです。
その点、『真田丸』は信繁は主人公なのに、彼の言動が秀吉などを動かして歴史的な出来事に繋がるということはありませんでした。
ただ、彼は馬廻りとして仕えながら、聡明さや誠実さや忠義心を見せ、
次第に秀吉や茶々や三成たちの心に刻みこまれていった。
三谷脚本では、信繁が歴史を動かした…とは(最後の大坂の陣までは)しないものの、
歴史を動かす人物たちの心に浸透していくさまをじっくり描きました。
それでも充分、信繁はまごうことなき主人公でした。
『真田丸』シナリオは、なかなか勉強になりました。
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