■妖怪テキストを早く切り上げ、タルコフスキー『ストーカー』、ユーロースペース行ってきました。
一昨日ツイートしてたら、どうしても観たくなって。
何度も観てる映画なのに、20数年ぶりに観た今回も衝撃的&すばらしかった!
水のさまざまな表情を幻想的に描いた映像ポエムや、
白い布を結びつけたナットを投げる、意味不明ながらもすっごく記憶に残る名シーンの数々。
その映像美を、今回は寝ずに堪能しました。(寝なかったの初めて???ww)
■『ストーカー』はタルコフスキーが40代後半の作品。
大学生だった私には「難解で哲学的な大人の映画」でしたが、
今、その年齢を越してしまったことに気づき愕然。
あと数年で、没した年齢も越してしまう・・・!!
■大学生だった私は、刺激的な映像ばかりに注目していましたが、
さすがに今は、ちょっと大人になったんで、中身も多少はわかるようになりました。
あっ、「多少」ですが。
黒い犬とか、いまだに理解できず。何なんでしょう?
シナリオの奥深さも再確認。
哲学的な、含みの多いシナリオで、観客にゆだねるところが多い。
エンタメのセオリーからは大きく外れてますが、でも、おもしろい。
たとえば今、このシナリオが日本の映画会社に提出されたとします。
まあ、まず通らないでしょうね。難解すぎると言われて。
そして、「じゃあ、どうすればいいんですか?」と食い下がったら、おそらくこう言われるんでないかということを、想像してみました。
「同行するキャラ数を増やす。できれば女性も」
「ゾーンがいかに危険か、言葉だけなので、
たとえば同行者の一人が、止めるのも聞かずに勝手な行動に出て、ショッキングな死に方をしてしまうのを見せたほうがいい(そこが予告編などでの「売り」になるし)」
「作家と学者が、なにが目的で『部屋』を訪れようとしてるか、早い段階で明示したほうがいい。
『やむにやまれぬ動機』があって、どうしても行きたい、としたほうがいい」
「後半、学者の真の動機が明かされるが、それまで、彼のバックボーンがちっとも描かれてないため、唐突すぎる。
回想とか使って、同行者たちのバックボーンを描くほうがいい」
あ、それから、今のはやりで、「ストーカーを若い女性にすれば?」という意見も言われそう。
そして極めつけの意見は、
「ゾーンが何か、最後でいいので明かしたほうがいい。
それは『えっ、そうだったんだ!?』と衝撃的だと、なおいい(きっと『猿の惑星』)が例えに出る)」
うん、エンタメ得意のプロデューサーに言われそう。
そして、困ったことに、この『ストーカー』シナリオを学生が書いてきたら、おそらく私も言っちゃうでしょうね。
だって、それが「エンタメのセオリー」ですもん(キラリ
ところが実際の『ストーカー』は、そういうエンタメセオリーを外しながらも、それでもおもしろいです。
たとえば「ゾーンがいかに危険か~」にしても、
その状況を見せなくても、ストーカーの緊迫した表情や言い方で、観客には伝わります。
「エンタメセオリー」が、なんぼのものよ!!
いやいや、学生にドラマトゥルギーを教えてる身としては、セオリーを否定するのはNGだけど。
でも、本当にいい映画でした。デジタルリマスターで再確認。
■『ストーカー』話の続きですが、、
エンタメって結局、観客の想像や解釈に委ねる「のりしろ」が少ないんですよね。
「ここは楽しむところ!」「ここは泣くところ!」って、作り手側が設定したとおりに観客に反応して欲しいっていう。
そういう計算はそれはそれで必要だけど、でも、のりしろも。
作り手にしてみたら、自分の意図が観客(視聴者、読者、ユーザー)に伝わらないのは困りもの。
間違って逆に捉えられるなんて、恥ずかしい。
だから委ねるのは怖いです。
ついつい説明過多になってしまい、「のりしろ」が少なくなるという。
タルコフスキー映画のように、見終わった後、「あれはどういう意味かな?」といろいろ考えたり、
あーでもないこーでもないと人と語りあったりできる作品はうらやましいけど、作るには勇気がいります。
観客との信頼関係も必要。
■私の師匠・野村芳太郎監督が、生前よく話してくださった話:
『拝啓天皇陛下様』という映画は、
「右翼からは『天皇陛下をお慕いする気持ちがよくあらわれてる』、
左翼からは『天皇制を批判してる』、
どっちからも『いい映画だ』って言われたんだよ」って、ニコニコしておっしゃってたけど、
それはそれで、どうなんでしょ? 作り手の意図が伝わってないってことでは?
青二才だった私は、そう思ってました。
今でもその答えは掴めてません。