今年、11月28日に友人の葬儀があり、長躯町屋の斎場まで駆けつけました。
その日の午後は、所属している団体でどうしても外せない会議がありました。会議に出席しているうちに、刻刻と気分が悪くなり、会議終了とともに誰に挨拶をする元気もなく、這うようにして帰宅しました。
それから1週間は頭が枕から離れず、次の週も頭痛と咳が残り、とりわけ夜になるとこみあげる咳で何度も目が覚めました。しばらくは悪寒が残り、気落ちした日々が続きました。
ところで、秋ごろから持っていたパソコンの調子が悪くなりました。そこで突然使用出来なくなることを懸念して、もうひとつ予備の機器を購入しました。尊敬する若い同僚が私の尻を叩き、そのパソコンの現調を手伝ってくれました。
否、手伝ってくれたというよりは、無能な私に替わり、ほとんどパソコンの立ち上げをしてくれました。特に新旧のパソコンに同時にメールが受けられるようにしてくれました。
先日、年末の整理をしようと、事務所で書類整理などを始めました。手始めにバックアップのパソコンのメールを整理しました。7、8千件くらいのメールが滞留していたのには驚きました。昼をはさんで午前午後と消し込んでいました。ずいぶん読んでいないメールがあるなあと思いました。メールとは特に血が通ったものであるはずもなく、無味乾燥なものが多いのですが、時々親しい友人からのメールが混じっていると、特に友人の肉声が聞こえるようで、何となくほのぼのとするものです。
漸くメール整理も終盤に差し掛かり、10月のメールを整理していたら、見覚えのあるメールアドレスを見つけました。そんなはずはないと思ったわけです。
今年はバタバタと過ごすことが多く、ずいぶんメールの点検も大雑把になっていて、先述した通り、見はぐっていたメールも散見されました。が、まさか先日死去した友人のメールが混じっていたことには驚きました。しばらく、そのメールを眺めていました。内容は短く、何ということもないものでしたが、私は返事をしていなかったことになります。最初は目で意味内容を追っていましたが、次にはメール全体を目で撫でまわすように眺めていました。私は立ち上がり、コーヒーを淹れました。また席に戻り、窓越しに午後の淡い日差しを浴びながら、パソコンの前で座り込んでいました。
臨死体験についての本を読んだことがあります。米国の高名な女医は、父親の死後電話をもらった体験を語っていました。「私は大丈夫だ。元気だ。」というような内容であったと記憶しています。私も、肉親を含めて何人かの知己の死に遭遇していますが、このような体験をしたことがありません。
ただ、このメールを読んだ時には、同じような気分に陥ったわけです。日付はまさに、彼の死去より前に出されていたのですが、メールを受け取った私は、死後の世界から友人が語り掛けてくれたように思いました。ぼくは相変わらずだよ、と。