昭和25年に生まれてから10年間、神戸で暮らした。ある文豪は、生まれた時に浸かった湯舟の柄を覚えていると言ったそうであるが、私は私を覗き込む母親の瞳を覚えている。あまりに近く覗き込むので、瞳がま近くにあり、そのぴかぴかするものは何だろうと思った。そしてそれは太陽だろうかと確かに思った覚えがある。

最寄り駅は国鉄の摂津本山だった。国鉄の線路があって、小さな牧場があった。もう少し山の方に上がると阪急があって、岡本が乗降する駅だった。そのころの神戸は夢の国のような静かで落ち着いた街だった。国道の近くに小路市場があった。阪神淡路の震災で、ここはペロリと焼けて無くなっていた。市場で、母親は肉、魚、パン、野菜、豆腐などを買った。味噌醤油はご近所の藤森さんで買った。床屋も近所の田中さんの所に行った。近所の八田さんもパン屋だったが、ここでは買わなかった。女の子がいて、同級生だった。近所に風呂屋があって、そこの女の子も同級生だった。家の風呂釜が壊れた時には、その風呂屋のお湯に入らせてもらった。男湯と女湯の仕切りに扉があって、子供は出入り自由だった。私は父親と男湯に入ったが、何かがあって、女湯の母親の所に行くことがあった。しかし、扉をくぐっていくと、むっとする女のにおいと化粧品の混ざったにおいが好きになれず、男湯の方が好きだった。

風呂屋の娘には弟がいて、ときどき一緒に風呂に浸かった。大きな湯舟とは別に、薬湯があって大きな湯舟のように熱くなく、温かった。おまけに入っている人があまり居ないので、好きでその弟と良く浸かった。二人でお湯に潜ったりしていた。

小さい頃は家の前の道で遊んだ。大きな道だと思っていたが、大きくなって尋ねたら小さな道なのでびっくりした。

幼稚園は王子公園の近くの幼児生活団に行った。原田先生が優しくて懐いた。昼ご飯とか、おやつの時間とか昼寝の時間などは、髪を長く垂らした女の先生が都度ピアノを弾いてくれて、それが合図だった。エリーゼのために、などはそれで覚えた。音楽や工作、遊戯などばかりで、勉強はあまりしなかった。本山第一小学校にあがったら、みんなが字が書けて、読めるのにはびっくりした。母親も少し慌てたようだった。

小学校はなかなか面白くて、坂本先生が優しくしてくれた。

母親はヴァイオリンを習わせた。これがあまり面白くなかった。ただし、音楽は好きだった。確か、バスで2駅先の森市場まで習いに行った。最初はチンチン電車だったが、バスに変わった。バスもボンネットバスだったが、すぐに前がペチャンコの現代風のバスに替わった。バスの運転手が格好良くて、棒のような大きなギアを動かし、クラッチも大きくて、足でバリバリ踏むのが、ダイナミックで見とれた。

ヴァイオリンの先生は児島先生と言って、優しく教えてくれた。鼻筋が高く、西洋人のような容貌だった。N響に勤めておられたと言うことであった。ところで、一向にヴァイオリンは上手くならなかった。上京する前、最後はタイスの瞑想曲を習った。

帰路は真っ暗になり、冬など寒かった。よく母親のオーバーにくるまってバスを待った。なかなか来なかった。オーバーの中で下を見ると、母親は竿竹のような細い足だった。日本中が貧しかった。バス停の前に靴屋さんがあって靴の修理をしていた。その仕事ぶりを見ていると、飽きなかった。仲良くなって、寒い時など店の中で待たせてくれた。皮を切ったり、先の曲がった針で縫い合わせるのを手品でも見るように見とれていた。縫う前に、針先に茶色い樹脂を少し付けていた。森市場の中にパン屋があって、時々母親がシュークリームを買ってくれた。一口食べると、体が蕩けるような甘さで、頭がボーッとなった。

小学校4年で、父親の転勤があって東京に転校した。