昭和40年に、世田谷の社宅を出て小平の1軒家に転居した。小平の小川駅で降りると、反対側はブリジストンの工場があった。朝など、我が家を出ると風向きによって、タイヤの臭いがきつく感じられることもあった。小川の駅から20分ほどかかると、日本生命の造成した団地があった。その一番奥に我が家があった。背後を野火止用水が流れていた。きれいな流れだったが、すぐにどぶ池のようになって、腐敗臭がするようになった。しかし、今ではまたきれいな流れを取り戻し、流れの中には鯉を見かけることができるようになった。
思い返してみると、そのころの小川界隈は一面の畑と雑木林だった。近傍に明治学院の校舎があって、職業訓練大学、後は障害者の福祉施設があるのみだったように思う。母親は買い物に難儀をしていた。近所には万事屋のようなものが1軒あるきりで、駅前に少し商店街があるきりだった。しかしながら、われわれがその小平の生活を否定的にみていたわけではない。十分の自然を満喫できたし、同じ団地の久保田さんのおばさんが、農家の関根さんと仲良くなって、野菜を安く手に入れてくれたし、秋になると梨の実をたくさんわけてもらった。雑木林で、猟銃を持ったおじさんを見かけたこともあった。もちろん密漁なのであろうが、誠に長閑な時代だった。
しかし、台風になると我が家はあちこち水が入って大いに困った。当時はアルミサッシというものがなくて、吹き降りに対しては昔風の木造家屋は弱さを露呈した。
転居したときはプロパンガスだった。母親は、それが不便だったので、都市ガスをひくことで、団地内を説得して歩いた。驚くべきことに団地内の頑強な反対があって、母親の提案はなかなか受け入れられなかった。陰でプロパンガス屋が糸を引いたことも手伝って、団地内でずいぶん嫌がらせを受けた。結局何軒かの賛同者とともに、都市ガスをひくことになったが、引いてしまったガス管から、多くの家が後でしれっとして都市ガスを引いていたのにはあきれた。先駆者の苦労の一端を知ることが出来た。
雑木林では、野バトの鳴き声をよく聞いた。雑木林の中にうずくまって、静かに呼吸をしていると、森閑としていて時々風の吹く音を感じた。ツルゲーネフの「あひびき」を二葉亭四迷の名訳で読んだが、その出だしを思い出した。
西武線は単線で、これは今でもそうだが、駅に着くと通票を渡していたのをよく見かけたものだ。最近は見なくなったが、どうなっているのであろうか。
通学は自転車で駅まで行った。父親も自転車で駅まで出ていた。そこから西武線で国分寺まで出た。小川から国分寺まで3つの駅を通るのであるが、とにかくどこも雑木林ばかりで、冬など真っ暗な雑木林の間を煌々と明かりをつけた電車が通る姿は一種幻想的であった。ひょっとして、異次元に行ってしまい、永久に目的の駅に到着しないのではないかとさえ思えた。