長らく古書店などを探し廻っていた本がようやく見つかった。一気呵成に読み返した。キップリング・大木惇夫「ゆうかんな船長」(講談社)である。他の版であれば、例えば小学館などであるにはあったのだが、この本が欲しかった。この本は誰が買い与えてくれたのだろうか。母だったか。あるいは我が家に出入りしていた両親の知己だったのか。大木さんの記述も柔らかく、心地いいリズムを作り出している。
とにかく子どものころ持っていた本で、何度も読み返した。それが転居などでいつの間にかなくなっていた。それをもう一度読み返したいと思っていた。
客船から転落した金満家のわがまま少年が、偶然に通りがかった漁船に拾われて、働いているうちに自分を取り戻すという物語である。海にまつわる少年少女小説を何冊か気に入って読んでいたが、この本もその一冊だった。他にも、R・アームストロングの「海に育つ」(岩波)も好きだった。
大学の卒業に際してはじめは就職する気はなかった、というより就職する気にならなかった。しかしながら、事情があって急転直下就職を目指すことにした。あれこれ就職市場をさ迷った挙句、するすると滑らかな木造の廊下を滑るように海運会社に決まった。あれは、このような海洋小説を読んでいたお陰なのかもしれない。
もともと海上での男くさい船員の働きやら、操船やら興味が尽きなかった。それが、海運会社に就職して、逆に全く船の運航実務に興味が沸かなくなった。その興味を取り戻したのは、退職して老い込んだこの頃になってからである。今年は機会があって、年若い友人と共に向島ドックと今治造船で船内を見せてもらった。面白いこと面白いこと。我ながらどうなっているのかと思うくらい興味が尽きなかった。
今回、「ゆうかんな船長」を読み返して奇妙なことに気づいた。それは、最後の数十ページである。昔はまったく気にも留めなかったのだが、失ったと思った息子と再会する大富豪の父親が、すっかり変わった息子に戸惑いを覚えるとともに、新たな希望を抱くと言う内容が、リアルに分かった。このくだりが、今の私には一番面白く感じられた。世間を知った息子に、立志伝中の父親は確かな手ごたえを覚えるのである。幼いころから波乱万丈の中苦労して富を積んだ父親は、自らの経歴を息子に話して聞かせる。他人の飯を食べることの意義は大きいと言わなければなるまい。