このところ、飼い猫を連れて入浴する。風呂の中で体を拭いてやる。抜け毛がこれで少しは減るのではないかと期待している。このとき、猫の顔を注意して見て、目やにを取ってやる。猫は目やにが付いていることに気が付かないらしい。顔を拭ってやるときも、迷惑そうな顔をしている。

 人間もどうかすると、目やにが付いていることがある。外出の際には気を付けねばなるまい。思い出してみると、子どもの頃母親が良く目やにがあるかどうかを気にかけてくれた。小さかった頃、抱き寄せられて目を拭ってもらうのが、何となく気恥ずかしい様な、嬉しいような、くすぐったい気持ちだった。母親が私の顔を覗き込むのが嫌で、早く離して欲しいとうずうずしていた。

 「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」と聖書にも書かれている(マタイの福音書第7章1~6節)。この梁とは何か、逆さまつげだろうかと思ったものだ。

自分を棚に上げた末言うのだが、良く見えていない人は大勢いる。というよりは、それを前提にして、人の世は成り立っているようなのだ。そのようなものと勘定に入れて、見過ぎ世過ぎをしていく他はない。

誤解を受けるくらい不愉快なものはない。若かりし頃、同年代の女性と話しをしていて、談偶々ペーパーナイフの話しになった。ペーパーナイフを何に使うかは、人それぞれであろうが、私は自分が購入した洋書のページを裁断するのにも使用していた。今はどうか知らないが、昔はページが切れていない洋書がままあったのである。裁断しながら、その洋書の臭いをかぐのが好きだった。外国と文化の臭いがするような気がした。古書店で購入すると、途中まで裁断された本がある。恐らく、前の持ち主はこの本を読むのを途中であきらめたのだと分かる。ところで、くだんの女性は私の話しを聞き、そのような裁断していない本なんてある訳はないと怒り出し、席を立ってしまった。「嘘つき」と言う悪罵浴びせられたことが今でも忘れられない。老境に至って、その夫人も世の中にそういう本があると知ったかもしれない。だからと言って、私を探し出して謝罪してくれる気もなかろう。

であれば、むしろ何もしない、何も言わない方が良いとも思える。老子もそのようなことを推奨している気もするが、たぶんそれではだめなのであろう。