本格的に、廃墟のような住居での生活が始まった。
・・・父は、ほとんどいなかった。・・・どこにいるのかもわからない。
母は知り合いの化粧品販売店へ働きに出た。・・・3歳の弟を連れて。
が、3歳の幼児が、店でおとなしくできるはずもない。早々に、弟を連れての仕事は無理だってことになった。
だからといって越したばかりの地域で、幼稚園など預かってくれるところもない。・・・・たった3km弱しか離れていないのに、校区がズレてしまえば見事に何もかもが変わった。
・・・・けっきょく、弟は、家で留守番ってことになった。
朝、母が働きに出るときに外から鍵をかける。そこから、ボクが学校から帰ってくるまで一人で家で待つ。・・・・もし、なんか事故でも起こったらどうすんだ?とは思ったけど、他にどうしょうもなかった。
学校が終わった。
まっすぐに家に帰る。・・・急いで帰る。弟がひとりで待っている。
夏の終わりとはいえ陽射しが強い。
摺りガラス。引き違い戸になった玄関。
玄関の鍵を開けていると・・・・部屋から弟が出てくるのがわかる・・・・鍵を開ける。
玄関を開けた。
「カァく~ん!」
弟が玄関まで走り出してきた。・・・ずーーっとボクが帰ってくるのを待っていたんだろう。
弟は、父が、母が、祖父がボクを「カァ」と呼ぶのを真似て「カァく~ん」と呼んでいた。
弟はまだ3歳だった。
弟は、たった一人でボクの帰ってくるのを待っていた。
まだ、テレビさえ一人でつけられない・・・・
昼には、母がつくっていったお弁当を、たった一人で、まだ箸さえ満足に使えない幼児が、たった一人で、食べて、待つ。
・・・・ボクが帰ったときに寝ていることもあった。
どうやって一人でいるんだろうな・・・・寝顔を見て思った。
あたりには画用紙帳とクレヨンが転がっていた。
・・・ある日のこと。
学校から帰ってきた。擦りガラスの玄関。物音に気づいた弟・・・
「カァくーん!」
駆けつけてきた。が、・・・・・・鍵がない!
ボクは、鍵を忘れて学校へ行ってしまったらしい。
「カァくん、あけて~!」
弟が繰り返している。カバンを探す。・・・ない。
カバンをひっくり返す。・・・・やっぱり鍵がない。
「カァくん、あけて~!」
繰り返しが嗚咽になっている。
ちょっと待ってろと説明しようにも、3歳の弟に通用するはずもない。
・・・玄関の擦りガラス、その1枚を挟んで弟が泣いていた。
どうしようもない・・・・母の勤め先に行って鍵を取ってくるしかない。
玄関先に自慢のサイクリング車があった。
・・・・しかし、鍵がない。家の鍵と一緒にしている。
ボクは走った。母の勤め先へ鍵を取りに走った。
盛りは過ぎたとはいえ、まだ、夏の陽射しだ。暑い・・・・その中を走った。
・・・・走った。・・・・走りながら泣けてきた。
子供の足には辛い距離だ。・・・・全速力で20分は走った。シャツが、ジーパンが汗でまとわりつく。
商店街の中の化粧品店。店についた。
叱られた。
「何やってんの!アンタは!」
こっぴどく母に叱られた。
とにかく鍵を受け取り、また走って家に戻った。
汗まみれで、ようやく家にたどり着いた。
擦りガラスの向こうに弟の姿が見える。
泣いている。座り込んで泣いている。
肩で息をして、汗まみれになりながら鍵を開ける。
「カァく~~~~~ん!!」
泣きながら抱き着いてきた。
「ゴメンな・・・ゴメンな・・・・」
繰り返すしかなかった・・・・・ボクは弟を抱きしめた。
ボクと弟は公園にいた。
ボクが学校から帰って、それから、ようやく弟は外に出られる。こうして外で遊ぶことができる。・・・だから公園に連れていく。
ボクと弟は8歳差だ。一緒に遊ぶってことはない。
弟がかわいそうだとは思った・・・でも、ボクだって5年生の子供だ。学校が終わればまっすぐ家に帰って、弟の面倒をみるのは楽しいことじゃない・・・・・
弟が砂場で遊んでいる。そばのブランコに座りながら弟を見ていた。
・・・・その向こうに広場がある。・・・・野球をしているのが見えた。
同級生だ・・・同じクラスだとわかった。・・・・転校した先の同じクラスの男子たちだ。
・・・・ボクは、野球をすることもない。
友だちと遊ぶこともできない・・・・だから、友だちはできなかった。
学校ではボクは「透明人間」だった・・・・誰にも気づかれない子供だった。
夕方。・・・・陽が落ちていく。
弟は砂場で遊んでいる。・・・ひとりで遊んでいる。
遊んでいた子供たちが、夕飯のために帰っていく。
野球の男子たちも帰っていった。
母が帰ってくるのは、もっと夜になってからだ。
暗くなった公園に取り残されるのは、ボクたちふたりだけだった・・・・