もうすぐ半年になるのかあ。
24hTVが偽善じゃないか、とか私だって思わない事もない。ここ数年は、どうしてもお涙頂戴的な番組で、募金の目的もなんだかあやふやだった気がする。勿論いろんなところに募金や、支援金が必要だったことは確かなんだろうけれど。
今年、あんな震災があって、あの手の番組の制作の手間暇と費用を、被災地に回した方が、なんて声すらあったのだけども、でも、震災から半年近くたって、全てではないけれども、被災地の現状を放送した事に意味があると思う。
東北から離れて住んでいると、節電を除けば、やはり震災直後のあの緊張感とか、被災地に対する思い入れとかが、薄れて来たように思う、でも、離れているからこそ、出来る事を、今まで通りにやるほかは無いし、あの震災のショックをいつまでも引きずっていていい筈もない、忘れると云う事は、自分を守るためにも必要な事だ。
でも、当時あの殺没とした中で、自分より大変な人がいるから、とか、こんな事くらいで泣くのは恥だとか、被災地にボランティアや、仕事等で行って泣いてはいけないと言われた人達は、じゃあこれからいつ泣くのかなあ。
一人で?だれも居ないところで?自分は、被災した人達に比べたらたいしたことないんだから?
そんな事があったって、あんな辛い事があったって、24hTVじゃなくても、たまにみたり聞いたりして、あの時、泣くのを我慢していた人とか、泣くに泣けなかった人とか、いつ泣いたらいいかわからない人が、涙を流すきっかけになってくれたら良いな、と思う。
たかだか、家に津波が床上浸水したくらい、別に命だってあるし。家だって片づけたらちゃんと住めるし...全然たいした事ないのよ、ウチは。
でも、震災当日、いつもは父が母を、仕事場まで車で迎えに来る筈なのに来なくて、職場では解散だから、とにかく家に帰るしかなくて、電気も付いてなくて信号も止まってて、走っている車のテールランプを頼りにただ、歩く他はなく、家の近くまで来たら、母の腰まで水(津波)が来ていて、到底家まで辿りつけなくて、私の母校である避難所に居た人が、そっちには行けないのでこっちに来て下さい、と言うのにも、真っ暗だからどっちだかわからない。
それでも、なんとか校舎に入って既に大勢の人が避難している校舎の教室を、明かりの無い暗い中、一つ一つ回って、父を探すのは途方も無い想いだったろう。
でも、父は父でちゃっかり(?)避難所の本部席に座っていて、直ぐに見つかり、ともあれ、大勢の人で、寝っ転がれるスペースすら取れない所に、なんとか、父と二人で座る場所を確保して、腰まで浸かった母は、仕事場で穿いてたズボンに着替えて落ち着いた。
東北の3月は、マジ寒い。着替えたとはいえ、暖房も無いところで、まして当日は雪が降るほどの寒さだった。寒いわ落ち着かないわで、眠れる訳がない、続く余震。
当時、停電で情報が無いので、津波警報が一晩中どころか、翌日の夕方まで出ていた事を両親や、その場に居た人は知らなかったらしい。
震災の翌日、車は流された訳じゃないけれど、水が入って唯の鉄クズになったらしい。一晩経って水が引いたので、一旦家に帰り、泥まみれの自転車を拭いて、それで母は、仕事場に向った。
家の電話は、水没で全く使いものにならず、両親は共にPHSを持っていたのに全くつながらず、避難所にある公衆電話で、父が、やっと妹の携帯に連絡をくれた。
公衆電話は、順番で長蛇の列だったので、「用件だけを言う、お父さんと、お母さんは無事だ。」とか、最小限必要な事だけ言って、電話は切れたらしい。
其れから、今みたいに連絡したい時に連絡出来るまで、今思えば、たったの2週間程。でも、凄く長い2週間だった。
両親も家も無事だけれど、故郷の一部を失ったこの感覚を、どんな風に自分中で処理したら、良いかわからない。
泣いたら良いのか、誰かに叫べばよいのか 。 ううん。