宵待月


最近、トマトに嵌っている。

体にもイイし、旨いし


スーパーに買いに行くと、福島県産のトマトが安く売っている

しかも、大量に売れ残っている.....


表示は、「福島県産」

でもね、福島県は広くて、海も、山も、畑も、あるわけで、

この、トマトは福島のドコから来たのかしら?

福島県は広くて、線量の濃いところも、薄いところも

さまざまあるのですが、それは表示しないんでしょうか?



「あんだ、どっつだい?(貴方は、何処から来たのですか)」


トマトは何にも言わないけれど


トマトの気持ちは.....


よく、わかんないけども。



今年も、福島の親戚から野菜は貰えなかった。


宮城県から福島県へ移動の際、明らかに

福島の復興が、遅れている。


ウチの親戚のお墓は治ってた、

でも、縁が薄い方のお墓はそのままだった。(来たくても来れないのかもしれない)


お墓の近くの森林が、全部切られていた、

新たにお墓を作る為らしい。

でも、許可が降りずに、切株がむき出しだった。

着工の目途はたっていない。あれ?復興庁は?


これから、福島はどうなるのかな?

このまま、忘れ去られるのか

見放されるのかな。




福島県の、何処から来たかわかんないけど、

東京のスーパーで売ってた、旨そうなトマト


こうやって、市場に出ている限りは、線量なんかは測っているし

まあ、若い人には進められないけれども、

せめて、オイラがおいしく食ってやろうじゃないか、

それくらいしか出来ないって事もあるし、

売れ残って、山積みされている、福島県産の野菜達を見て切ないから....

って理由もある。


まあ、偽善かもしれないが




P .S 

毎日暑くて、火を通さず、旨い酒のアテを模索中
トマトに、粉チーズをかけたら、美味!

あっ、赤ワインにも、合うわー( ̄▽+ ̄*)

放射能汚染って、どれくらい広がっているんだろう?


福島の原発事故当時、どうやら福島県民には、あまり情報が もたらされなかったらしい。

緊急避難、避難勧告、自己避難.....確かに結果は後からわかる事....だけども。


福島だけでなく、東北の早場米が出回り始める。


確かに、放射線物質は検出されなかった、のかもしれないが、

何故、もしかしたら放射線物質が、検出されるかもしれない農作物を、

作成することを、許したのだろう?


原発事故は、起こった。

放射線物質からの汚染は、既に広がっている。


情報の遅れか、はたまた隠ぺいか、関係無いと思われた作物が、実は汚染されて

汚染とは、全く無関係な場所の家畜が汚染された。


仕事をしなければ、生活出来ない、被災したからと言っていつまでも

支援物資に頼れる筈も無い、

だから、その時、その場で出来る事を

畑を耕し、種を蒔き、家畜を育て、失った悲しみが、其れで癒されるなら

でも、其れは既に、汚染されているかも 知れないのだ、

危険がわかっていたのなら、始めから 作らなければ良いではないか?

作って、育ててから、放射能検査?

此処が、もう安全と、誰もが認められる土地でない所に作らせて置いて

何が検査?

ちゃんちゃらおかしい。


事故は起こった。

土地は汚染している


福島の野菜は安全です。

そんな訳ないだろ?


何年かして、病気になっても、関連は認められません。


みとくみの親戚は、皆、福島県相馬郡新地町に、大勢いる

ほぼ専業農家.....


夏休みに、遊びに行けば

いつも、ドラえもんのポケット見たいに、あちらこちらの倉庫から

叔父や、叔母が、色んな野菜を用意してくれている。

「あいづも、こいづも、そいづも、みな、もってんげえ」(注訳:あれも、これも、それも、全部持って行きなさい)

と、其処で取れた野菜が、大量に入った、でかい米袋に、一、二袋

車に積んで、仙台の実家に帰る、

帰りの車は、ちょっと重くて、坂道を登るのが、少し しんどい。


青い野菜は、実家滞在中に調理して、其々の腹の中へ

根菜とか、すぐに痛まない様な 野菜は

私も、妹も 其々の都会の家に持って(宅急便で送ったり)帰る


秋になったら、新米が実家に届く、母が、うちじゃあ食べきれないからと

私と、妹の所に送られてくる。



そんなことも、もう無くなる。

いままで、当たり前にあった事が、コツコツとこんな形で無くなってしまうなんて思わなかった。


まさか、此処まで放射線物質は、流れては来るまい、

なんの、疑いも無く、今年も野菜を畑に作った。

「福島産」

と言うだけで、今年は全く野菜が売れない。

特に、若い人達には。

進められない、これから子供を産むかもしれない人や

子供のいる家庭には。


だから、今年の夏休み、野菜は、貰えなかった。

若い人たちには あげられない、余った野菜は、

自分達が食べる。。と言った叔母の 哀しい顔。


今年は、叔母達のいる、福島から仙台の実家へ行く車も軽い

坂道も、ちっとも大変じゃなかった。

其れが、哀しかった。


だから、今年は新米だって来ないだろう


けれど、叔父も、叔母も、いつまでも元気なわけじゃない。

もうすぐ半年になるのかあ。

24hTVが偽善じゃないか、とか私だって思わない事もない。ここ数年は、どうしてもお涙頂戴的な番組で、募金の目的もなんだかあやふやだった気がする。勿論いろんなところに募金や、支援金が必要だったことは確かなんだろうけれど。




今年、あんな震災があって、あの手の番組の制作の手間暇と費用を、被災地に回した方が、なんて声すらあったのだけども、でも、震災から半年近くたって、全てではないけれども、被災地の現状を放送した事に意味があると思う。


東北から離れて住んでいると、節電を除けば、やはり震災直後のあの緊張感とか、被災地に対する思い入れとかが、薄れて来たように思う、でも、離れているからこそ、出来る事を、今まで通りにやるほかは無いし、あの震災のショックをいつまでも引きずっていていい筈もない、忘れると云う事は、自分を守るためにも必要な事だ。




でも、当時あの殺没とした中で、自分より大変な人がいるから、とか、こんな事くらいで泣くのは恥だとか、被災地にボランティアや、仕事等で行って泣いてはいけないと言われた人達は、じゃあこれからいつ泣くのかなあ。


一人で?だれも居ないところで?自分は、被災した人達に比べたらたいしたことないんだから?


そんな事があったって、あんな辛い事があったって、24hTVじゃなくても、たまにみたり聞いたりして、あの時、泣くのを我慢していた人とか、泣くに泣けなかった人とか、いつ泣いたらいいかわからない人が、涙を流すきっかけになってくれたら良いな、と思う。






たかだか、家に津波が床上浸水したくらい、別に命だってあるし。家だって片づけたらちゃんと住めるし...全然たいした事ないのよ、ウチは。


でも、震災当日、いつもは父が母を、仕事場まで車で迎えに来る筈なのに来なくて、職場では解散だから、とにかく家に帰るしかなくて、電気も付いてなくて信号も止まってて、走っている車のテールランプを頼りにただ、歩く他はなく、家の近くまで来たら、母の腰まで水(津波)が来ていて、到底家まで辿りつけなくて、私の母校である避難所に居た人が、そっちには行けないのでこっちに来て下さい、と言うのにも、真っ暗だからどっちだかわからない。




それでも、なんとか校舎に入って既に大勢の人が避難している校舎の教室を、明かりの無い暗い中、一つ一つ回って、父を探すのは途方も無い想いだったろう。


でも、父は父でちゃっかり(?)避難所の本部席に座っていて、直ぐに見つかり、ともあれ、大勢の人で、寝っ転がれるスペースすら取れない所に、なんとか、父と二人で座る場所を確保して、腰まで浸かった母は、仕事場で穿いてたズボンに着替えて落ち着いた。




東北の3月は、マジ寒い。着替えたとはいえ、暖房も無いところで、まして当日は雪が降るほどの寒さだった。寒いわ落ち着かないわで、眠れる訳がない、続く余震。




当時、停電で情報が無いので、津波警報が一晩中どころか、翌日の夕方まで出ていた事を両親や、その場に居た人は知らなかったらしい。




震災の翌日、車は流された訳じゃないけれど、水が入って唯の鉄クズになったらしい。一晩経って水が引いたので、一旦家に帰り、泥まみれの自転車を拭いて、それで母は、仕事場に向った。


家の電話は、水没で全く使いものにならず、両親は共にPHSを持っていたのに全くつながらず、避難所にある公衆電話で、父が、やっと妹の携帯に連絡をくれた。


公衆電話は、順番で長蛇の列だったので、「用件だけを言う、お父さんと、お母さんは無事だ。」とか、最小限必要な事だけ言って、電話は切れたらしい。



其れから、今みたいに連絡したい時に連絡出来るまで、今思えば、たったの2週間程。でも、凄く長い2週間だった。


両親も家も無事だけれど、故郷の一部を失ったこの感覚を、どんな風に自分中で処理したら、良いかわからない。

泣いたら良いのか、誰かに叫べばよいのか 。 ううん。


















































変わらないものなんて無い。だから、被災地もまだまだ大変な事に変わりは無くても、少しずつ、少しずつ変わって来ている。


先週末から今週末にかけて 被災地 仙台に帰ってきた。

1階だけ、津波に浸かってしまった家も、電化製品が少しずつ使えるようになり、新しい畳みが入る

お風呂はボタンを押してしばらくしたら「お風呂がわきました」(だったかな?)なんてしゃべるお家になっていた。

後は、洗面所と.....まあとにかく着々と動いている。


妹の陰謀(?)でプロ野球を、生まれて初めて見に行く、応援するのは、勿論、本拠地が仙台の楽天イーグルス!

普段野球中継なんて、全く興味無いけれども、ライブって 何でもすごい。仙台にある遊園地のCM曲を替え唄にした応援歌を歌い、ビールを飲んで、知らないおじさんとハイタッチしたり。楽しかったじゃん。


福島の浜通りにある、じいちゃん、ばあちゃんの墓参りへ行く、東北全体がそうなのだろう、墓石はどこもかしこも崩れていて、素人には手は出せず。業者に頼んではいるモノの、業者だって、今頃てんてこまいなんだろう。

せめてお彼岸くらいには間に合うんだろうか?


東京へ帰る日、家族でパスタランチ。妹と母が頼んだパスタを見た父が、これは何かと、母に聞いたのに対し「バジル入りパスタだよ」と答える。

父が怪訝な顔をしているので訊いたら、どうやら「馬汁」のことかと思ったらしい。。。。

バジルって家でも食べた事あると思うんだけどね。

まあ、両親が元気だったって事で.........良い夏休みを過ごしてきました。

私は、私でしかなくて、誰も私の変わりなんて居ないし、変わりに成れる筈も無い。

私の変わりはいくらでも居て、わざわざ私が居なくても成立することのなんと多いことか。

別に私じゃなくても、貴方を幸せに出来る人はいくらでも居て、むしろ私なんて傍に居るだけで、その人の幸せを壊してしまうことだってある。

傍に居て嬉しいのは、他でもなく私自身で、私が傍に居るだけで貴方が幸せになれるのなら、いくらだって傍に居るのに。
私だけ唯一貴方幸せに出来る何かだったら、なんだってするのに。

これから出会うべくを待っているのか、もう既に出会っているのか?
それとも、何かを見逃したのか、今生ではもはや出会えないのか、わからないけれども

私が私であることで、一緒に居てくれる誰かに、一人でも良いから出会えたら良いのに、その一人を探し出すことの難しさ、見つけ方を誰か知らないだろうか?

そのへん、妥協して、適当な人と一緒に居れば寂しくなくなるかな?
いや、ますます寂しくなるだろうな。

私は私でしかない、私は私の思うように生きるだけなんだけどさ