1・这是蒸出来的。
2・我吃出来了。
3・他说没喝酒,可是被他太太看出来了。

1・【直訳】これは蒸して出来たのです。
2・私は食べて分かった。(食べ分けられる)
3・彼はお酒を飲んでないと言うが、奥さんに見破られた。

出来は、もともと方向を示す言葉。そのため、方向補語である。
しかしここでは喩えとして使われている。そのため、この「~出来」は方向補語の派生的な用法と言う。

では、喩えを考えてみよう。
まず黒い部屋を想像してください。
そして部屋から出てくる。
そとは明るい。

このことで、「急に分かった」「悟った」を喩えるのである。

以上の2、3は、この喩えでお分かりになりましたか。

では、なぜ日本語の「できる(出来る)」とこんなに似ているの?
最近、ある本を読んですこし分かるようになった。
(荒木博之『やまとことばの人類学』)
日本語は「いでくる→でくる→できる」という順に変化してきたのである。
「いでくる」の本来の意味は「無かったものが新しいもの生ずる」。
『風姿花伝』にはこう書いてある。
「これ能のよくいでくる成就の初めなり」(これがよい能の出来る成功の初めなのである)

下は私の推測だが、
中世にこの言葉を使い始めたというと、これは中国語の「出来」の訓読(いで・くる)ではないか。
もし私の推測が正しければ、「出来」と「できる」の由来は同じとなる。
「無かった→ある」。例1・“这是蒸出来的”はこれで説明できる。

結論:
“出来”は次の二つの意味がある。
1)なりゆきで新しいものが生じた。 (いでくる→でてくる)
2)主体が認識できるようになった。 (いでくる→できる)