10数年前、親友がアメリカから来たときの話です。
彼が曰く「私は、どうすれば英語を正しく話せるのを知っている。しかし、あんな大げさに振る舞うことは恥ずかしくできません」
私が頷いた。
「日本語を話す私も同じ。日本人の仕草を真似して話すのはなかなかできません」
私たちは大学で物理を勉強し、とくに外国語がすきな人間ではありません。
外国語を一種の道具として見ていました。
読めて聞けて、それでよいことです。
そのため、外国語で寸劇をする外国語学部学生の才能をすごく感心します。
私たちにとって、外国語を話すことは、芝居がかったことで、
ときには恥ずかしい思いをします。
その後、この「外国語=芝居」仮説をもって学生を観察しました。
例えば、大学生が発音を練習するときよく笑います。
「笑わないで、まじめに発音しよう!」と思っていた私が、ある日に気づきました。
思春期にある彼らは、人前で新しい音を出すことに恥じるのは、当然なことです。
社会人はやや違います。たとえば、去年11月に入会したUMさん。
四声を手で示す練習をさせると、彼女はきちんと動きます。
もちろん発音も完璧です。
最近、すこし長い文を教えると、まず文の抑揚、リズムを真似して、それから細かい単語の発音をするような練習をさせています。
彼女は、楽しそうにやっています。
そこで、私が聞いてみました。
「普通こういう練習をすると、恥じて続かない人が多いのですが、UMさんはどうしてこれができるのですか」
彼女が答えてくれました。
「人の前に外国語を話すのは、はじめてカラオケを歌うみたいで、もちろん恥ずかしいですよ。でも、これは勉強と思って割り切っています」
恥ずかしい。これは外国語を話すときのつきものです。
だれも、この恥じる心理と付き合いながら、勉強していくのでしょう。
ただし、強く恥じた私のような人も日本語を話せるようになったので、
みなさんもご安心ください。
少しずつ慣れていきましょう。
彼が曰く「私は、どうすれば英語を正しく話せるのを知っている。しかし、あんな大げさに振る舞うことは恥ずかしくできません」
私が頷いた。
「日本語を話す私も同じ。日本人の仕草を真似して話すのはなかなかできません」
私たちは大学で物理を勉強し、とくに外国語がすきな人間ではありません。
外国語を一種の道具として見ていました。
読めて聞けて、それでよいことです。
そのため、外国語で寸劇をする外国語学部学生の才能をすごく感心します。
私たちにとって、外国語を話すことは、芝居がかったことで、
ときには恥ずかしい思いをします。
その後、この「外国語=芝居」仮説をもって学生を観察しました。
例えば、大学生が発音を練習するときよく笑います。
「笑わないで、まじめに発音しよう!」と思っていた私が、ある日に気づきました。
思春期にある彼らは、人前で新しい音を出すことに恥じるのは、当然なことです。
社会人はやや違います。たとえば、去年11月に入会したUMさん。
四声を手で示す練習をさせると、彼女はきちんと動きます。
もちろん発音も完璧です。
最近、すこし長い文を教えると、まず文の抑揚、リズムを真似して、それから細かい単語の発音をするような練習をさせています。
彼女は、楽しそうにやっています。
そこで、私が聞いてみました。
「普通こういう練習をすると、恥じて続かない人が多いのですが、UMさんはどうしてこれができるのですか」
彼女が答えてくれました。
「人の前に外国語を話すのは、はじめてカラオケを歌うみたいで、もちろん恥ずかしいですよ。でも、これは勉強と思って割り切っています」
恥ずかしい。これは外国語を話すときのつきものです。
だれも、この恥じる心理と付き合いながら、勉強していくのでしょう。
ただし、強く恥じた私のような人も日本語を話せるようになったので、
みなさんもご安心ください。
少しずつ慣れていきましょう。