初級中国語の参考書によると、
受身文に「被、让、叫」を、使役文に「让、叫、使」を使うのです。
同じ「让」を使うので、ややこしいです。
たとえば、
我的书让他拿走了。(私の本は、彼に持って行かれた)
我让他拿来一杯茶。(彼のお茶を取ってきてもらった)
長い間、私は、これを中国語における混乱、中国語の欠点と思い込み、
初級者には、受身に「被」を、使役に「让、叫」を使うように指導してきた。
ある日、思いつきで「受身=使役」ではないかと想像した。
たとえば、「私は話を彼に聞かれた」。この事実を「私の不注意によって、彼に聞かせた」と理解してもいいです。
こういう意味で、「受身=使役」と言えるのでしょう。
(注:A=Bとは、AとBは違うという前提での判断です)
昨日、レッスンでこの話をしたあと、『中国語の語順を制す』で提唱した方法で考えてみました。
使役は次のように理解できます。
我 让 (他) (私は彼にさせた)
他 拿来 一杯茶。 (彼はお茶をもってきた)
(ちなみに、NHKの中国語講座のテキストにも、このような分析法を使っているらしい)
受身は次のように理解できます。
我的书 (私の本は(主題))
(让)他 拿走了。 (彼が持っていった。「让」を入れると不便のニュアンスを表す)
不便でなければ、「我的书他拿走了。」(私の本は、彼が持っていった)と言います。
以上のように考えると、受身文も使役文も、下の段では普通の語順で言います。
このことは、なぜ受身文と使役文が同じであるかという謎に、重要なヒントを提供してくれた。
つまり、こういうことです。
我 让 他 拿来 一杯茶。
この場合、動作は自分以外に向かっている。
我 让 他 拿走了 茶。
この場合、動作は「私」と関係あります。
「彼にお茶を持っていくように言った」と「彼にお茶を持っていかれた」は、同じ事実を指す。
では、結論を述べよう。
1、事実を考えると、一部の場合、受身=使役。
2、しかし多くの言語では、受身と使役を違う表現を表す。
その理由は、同じ事実でも話し手の気分はまったく違うからだ。
3、中国語では、違う表現で表す場合もあれば、「让、叫」を使って同じように表すこともある。この場合、「事実は同じだ」という側面が重視されている。
教訓:
すべての言語と同じ、中国語には、調和的な論理がある。
その論理にそむく理論で考えるから、おかしく見える。
逆に、おかしくと思われるところをよく考えると、
じつは、私たちが使っている分析法に大きな欠陥があることがわかる。
これは、「理論と事実のオセロゲーム」である。
受身文に「被、让、叫」を、使役文に「让、叫、使」を使うのです。
同じ「让」を使うので、ややこしいです。
たとえば、
我的书让他拿走了。(私の本は、彼に持って行かれた)
我让他拿来一杯茶。(彼のお茶を取ってきてもらった)
長い間、私は、これを中国語における混乱、中国語の欠点と思い込み、
初級者には、受身に「被」を、使役に「让、叫」を使うように指導してきた。
ある日、思いつきで「受身=使役」ではないかと想像した。
たとえば、「私は話を彼に聞かれた」。この事実を「私の不注意によって、彼に聞かせた」と理解してもいいです。
こういう意味で、「受身=使役」と言えるのでしょう。
(注:A=Bとは、AとBは違うという前提での判断です)
昨日、レッスンでこの話をしたあと、『中国語の語順を制す』で提唱した方法で考えてみました。
使役は次のように理解できます。
我 让 (他) (私は彼にさせた)
他 拿来 一杯茶。 (彼はお茶をもってきた)
(ちなみに、NHKの中国語講座のテキストにも、このような分析法を使っているらしい)
受身は次のように理解できます。
我的书 (私の本は(主題))
(让)他 拿走了。 (彼が持っていった。「让」を入れると不便のニュアンスを表す)
不便でなければ、「我的书他拿走了。」(私の本は、彼が持っていった)と言います。
以上のように考えると、受身文も使役文も、下の段では普通の語順で言います。
このことは、なぜ受身文と使役文が同じであるかという謎に、重要なヒントを提供してくれた。
つまり、こういうことです。
我 让 他 拿来 一杯茶。
この場合、動作は自分以外に向かっている。
我 让 他 拿走了 茶。
この場合、動作は「私」と関係あります。
「彼にお茶を持っていくように言った」と「彼にお茶を持っていかれた」は、同じ事実を指す。
では、結論を述べよう。
1、事実を考えると、一部の場合、受身=使役。
2、しかし多くの言語では、受身と使役を違う表現を表す。
その理由は、同じ事実でも話し手の気分はまったく違うからだ。
3、中国語では、違う表現で表す場合もあれば、「让、叫」を使って同じように表すこともある。この場合、「事実は同じだ」という側面が重視されている。
教訓:
すべての言語と同じ、中国語には、調和的な論理がある。
その論理にそむく理論で考えるから、おかしく見える。
逆に、おかしくと思われるところをよく考えると、
じつは、私たちが使っている分析法に大きな欠陥があることがわかる。
これは、「理論と事実のオセロゲーム」である。