本屋でときどき「話すための文法書」を見かける。
自分の本もこのタイトルを付けようかと思うときがある。
しかしモヤモヤした思いがある。
「話すため」があれば、「話すためでない文法」もあることになる。
線引きはどうすればよい? 他書を読んでも、どこにも書いていない。
最近、やっと気づいた。
平たくいえば、話すための文法は、2人の文法。一般の文法は1人の文法。
つまり、話すための文法は、「話し手の言葉を、聞き手がどう捉える?」という視点からの説明。
一般の文法は、「この言い方が正しいかどうか?」という視点からの説明。
だとしたら、聞き手の捉え方を考えてみよう。
じつは、聞き手が話を聴くとき、「言葉と文脈」を合わせて聴いているのである。
たとえば、「どこにいくの?」で聴いたら、相手は「だれのことを聞いているの?」と普通は言わない。文脈で「あなたのことだよ」と分かっているからだ。
どうして話し手が言ってないのに、聞き手が分かっているの?
英語だと主語を言わないと、だめじゃないか?
その理由は、日本文化という文脈では、「主語を言わなくても相手がわかる」という約束事があるからである。
中国語の場合も同じ。「他是老師」と言ったら、「(いまは)先生です。それとも(かつて)先生でした。それとも(むかしから)先生です」と分からない。
でも、聞き手が分からなくても構わないという中国文化が背後にある。
「知りたければ、聞いてね」と考えればよい。
以上の話をまとめると。
話すための文法は、じつはコミュニケーションを前提とする文法である。
聞き手の捉え方を常に意識した文法説明である。
「あ、話すための文法とは、会話の文法ですね。
正しい文法より、一段低いです」と思っている方がいらっしゃるかもしれない。
これは大間違いである。
言葉は、相手と意思疎通をするために、動物の叫ぶ声から進化してきたのである。
長い、長い間に声しかなかった。
文字を使う歴史はごく短い。規則的な文法を書く歴史はさらに短い。
話すための文法は根源的なものであり、
「一般の文法」は、言葉を便宜的に理解するための一つの枠組みにすぎない。
これから「話すための中国語文法」を組み立てていこう。
自分の本もこのタイトルを付けようかと思うときがある。
しかしモヤモヤした思いがある。
「話すため」があれば、「話すためでない文法」もあることになる。
線引きはどうすればよい? 他書を読んでも、どこにも書いていない。
最近、やっと気づいた。
平たくいえば、話すための文法は、2人の文法。一般の文法は1人の文法。
つまり、話すための文法は、「話し手の言葉を、聞き手がどう捉える?」という視点からの説明。
一般の文法は、「この言い方が正しいかどうか?」という視点からの説明。
だとしたら、聞き手の捉え方を考えてみよう。
じつは、聞き手が話を聴くとき、「言葉と文脈」を合わせて聴いているのである。
たとえば、「どこにいくの?」で聴いたら、相手は「だれのことを聞いているの?」と普通は言わない。文脈で「あなたのことだよ」と分かっているからだ。
どうして話し手が言ってないのに、聞き手が分かっているの?
英語だと主語を言わないと、だめじゃないか?
その理由は、日本文化という文脈では、「主語を言わなくても相手がわかる」という約束事があるからである。
中国語の場合も同じ。「他是老師」と言ったら、「(いまは)先生です。それとも(かつて)先生でした。それとも(むかしから)先生です」と分からない。
でも、聞き手が分からなくても構わないという中国文化が背後にある。
「知りたければ、聞いてね」と考えればよい。
以上の話をまとめると。
話すための文法は、じつはコミュニケーションを前提とする文法である。
聞き手の捉え方を常に意識した文法説明である。
「あ、話すための文法とは、会話の文法ですね。
正しい文法より、一段低いです」と思っている方がいらっしゃるかもしれない。
これは大間違いである。
言葉は、相手と意思疎通をするために、動物の叫ぶ声から進化してきたのである。
長い、長い間に声しかなかった。
文字を使う歴史はごく短い。規則的な文法を書く歴史はさらに短い。
話すための文法は根源的なものであり、
「一般の文法」は、言葉を便宜的に理解するための一つの枠組みにすぎない。
これから「話すための中国語文法」を組み立てていこう。