今日は生誕日なので
向き合ってみることにした
亮弦さんとの記憶
自分はきっともう
破綻して壊れるほど脆くはない
ずっと前を見ているから
いつだって今を生きているから
だから
時には過去に意識を向けさせて欲しい
自分へのお願いみたいなもの
あらゆる絶望が並べられても
その全てを凌駕して
彼が生きているという
圧倒的な希望が
私を生かしていた
自分が彼とどう生きていたか
その断片を少しずつ
時々書き起こそうと思う
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「なんか腹痛いんやわ」
「まじか、どの辺?よくあるの?」
「この下っ腹あたり。よくある。最近便秘気味やでそれかもって感じ。まあ、放っておけば治る」
2017年7月8日、かんかん照りの昼下がり。
亮弦さんのお見舞いで都内某病院の6階にいた。
今回の治療計画によれば、この日は抗がん剤投薬3日目で明日には退院の予定。副作用もさほど強くないレジメン*1なので、倦怠感や軽い吐き気はあるものの、それらは深刻ではなかった。抗がん剤を打っても取れない体の痛みがあるため、鎮痛剤トラマールだけは欠かせなかった。
「リンちゃん今日は何時までおる?」
「んー、まあ、夕方くらいかな?」
「おっけー。天気もいいし遊歩場行こうぜ!」
「いえーい、遊歩場〜♪」
病室を出て、病院の迷路のような廊下を亮弦さんについて歩く。院内は彩度が低い、もったりとした色彩だ。時折、窓のある場所を通ると、夏の日差しが差し込んでコントラストの強い景色。病院特有の匂いも相まってなんだかやさしく心地よい。廊下には時折、生花が飾られていたり、壁に色紙ぐらいの額がかけられ名も知らない画家の風景画や抽象画が収められていたりする。ぐるぐると歩いて、ずいぶん奥まったところにある薄暗い階段を登る。少しだけ、学校のプールの匂いがした。
2階分ほど登ったところにある重い鉄扉が開くと、緑豊かでこじんまりとした日当たりの良い場所に出た。それが遊歩場。
ちょうど誰もおらず、隣接するビルにもさほど視界を邪魔されない高さで、これでもかというくらいジリジリ日差しが強く、海にでも行きたくなるような暑さだった。二人でジリジリになったベンチに腰掛けて「日光浴はいいですね〜」なんて話をしていると、先ほど自分たちが入ってきた鉄扉が開いて、元気な少年の声が聞こえてきた。
「今日は空いてるよー!」
「ほんとね!それによく晴れてるじゃない!」
それに応える女性の声。
少年と少年の母親らしき女性。そして女性が押す車椅子に、岩のような男が座っていた。頭に包帯を巻き、少年と女性の明るさと全く正反対の、深い影を落とした表情で。
車椅子が入り口の段差につっかえて、少年と女性は「よいしょ、よいしょ!」「そっち持ち上げてー!」なんて言いながら、楽しげに車椅子を遊歩場に出そうとする。その間も男は微動だにせず、伏し目がちに目の前を睨んでいた。
「あんなに、人を信じられませんて眼して、相当な事があったんやろな」
亮弦さんはいつもと変わらぬ声のトーンでそう言った
「そうかもねぇ」
私もいつもと変わらぬトーンで返す
「病院おったら、あんな光景は毎日見るで。当人もしんどいやろけど、周りもどうしていいか分からん。それでもお互い優しさを持ち寄ってなんとかすんねんな」
「頑張れなんて言えないけど、頑張れと思ってしまうな…。みんな、壊れないでほしいね」
「リンちゃんもやで、頑張りすぎんといてな」
彼からの労わりの言葉が、この世の何よりも自分を元気づけてくれる。
私が疲れてしまったり、暗い顔をしたら、この人はきっと悲しむだろうし、嘘の笑顔はすぐに見破られてしまうだろうと思った。辛い時は辛いとはっきり伝えて、苦しい時は苦しいとはっきり伝えて、お互いの痛みを二人でわかり合って乗り越える。それが二人の中で約束するでもないけれど、二人にとっての状況を乗り越えていくための戦術のようなものだった。
少しの間、二人で晴れた空を見上げていたが、亮弦さんが思い立ったように
「昼食った?食堂行かへん?」
と言った。
「お、いいね!そうしましょ〜」
ウキウキする気持ちでそう答えて、二人で立ち上がり、遊歩場をあとにした。
病院の1階まで降りて、食堂に入る前に
「ごめん、ちょっとトイレ寄ってっていい?腹痛いわ」
「うんこか、OK!待ってるー」
この頃続いていた便秘のせいもあってか、ちょっと長かった。抗がん剤とは別に常用しているトラマールという鎮痛剤には、便通が悪くなる副作用もあったため、何も疑問には感じていなかった。トラマールを飲むようになってから、便秘は常時起きていたし、この時も目立っておかしなことはなかった。
「はいお待たせー、すまんな」
「はいよ、ちゃんと出た?まだお腹痛い?」
「おう、なんかな、まだ痛いわ。あんまり出やんだし」
「そかー。先生にちょっと相談したほうがいいんかな?」
「せやな、まあ、あんまり気にするほどでもないけどな。ちょっとあとで言ってみよかな。」
一緒に食堂に来るのが初めてだったので、私は密かにテンションが上がっていた。病院に出入りする時いつも目に入ってくる食堂前の食品サンプル。ずっと気になっていたオムライスを私は頼み、亮弦さんはパンケーキを頼んだ。
アレヤコレヤ他愛もない話をしているうちにオムライスとパンケーキがやってきて、ワクワクしながらオムライスを一口頬張り、私はショックを受けた。
「こ、このオムライス…おいしくない…」
絶妙にまずい。と言うかしょっぱい。
は?いや、厨房を貸せっちゅうねん!と思うくらいまずい…。
「せやろ?この病院、入院食もあかんねん。しかもパンケーキにマーガリン出すって、患者のこと本当に考えるなら、食から見直せっちゅうに」
「って言いながら食べるんでしょ?」
「あたりまえやろ」
「おいしくねぇー、ウケるー」などと笑いながら話をしていたが、またトイレに行きたいと、パンケーキも途中に亮弦さんは席を立った。
長い。
さっきよりも全然長い。
マーガリンは溶けきってしまった。
私はまずいオムライスを食べ終わってしまいそうだ。
しばらくすると、亮弦さんが戻ってきた。その表情は険しく、前かがみに財布をこちらに向けながら。明らかに様子がおかしい。
「お、お、お、だいじょ…」
私は少し動揺しながら声をかけると、亮弦さんは被せ気味に言葉を返してきた
「すまん…!先病室戻るわ…金払っといて…あかんわ」
財布を受け取って、すぐに会計を済ませた。食堂を出たところにもう亮弦さんはいなく、どうやらタイミングよく来たエレベーターに乗って 6階の病室へ向かったようだった。私も急いでもう1つのエレベーターに乗り込んだ。6階に着きエレベーターを降りると、廊下の慌ただしい空気を感じた。角を曲がって、亮弦さんの病室の方へ視線を向けると、数人の看護師さんに囲まれて、ぐったりした男性が車椅子に乗せられ病室に急行する様子が見えた。
『亮弦さんだ…!』
急いで追いかけて病室に入ると、お腹の痛みに苦しみの声を上げる亮弦さんが。そして周りには数人の看護師さんがついていて、腹痛の原因究明が急がれた。
「奥様ですか?」
「いいえ、あの…、彼女です」
「彼女さんでしたか、すみません。応急処置の準備などありますので、こちらでお待ちください」
廊下に椅子が一つ出され、そこに座って待つ。
病室の中からは亮弦さんのうめき声と、看護師さんの冷静になだめる声がひっきりなしに聞こえた。
間もなくして血液内科の先生が駆けつけ、鎮痛剤投与とレントゲン撮影はあっという間に行われた。
「彼女さん、もう入られて大丈夫です」
「先生、どうもありがとうございます。いつもお世話になっております。あの、どういった症状なんでしょうか」
「おそらく腸閉塞ではないかということで、レントゲンを元に調べながら少し様子を見ます。ひとまず応急処置として鎮痛剤を打ちました。少し落ち着いてくると思いますよ。」
「そうですか。ありがとうございます」
亮弦さんはぐったりとしていた。
「悪いな…せっかく、来てくれたのに…うぅぅ!」
「ううん、平気。まだ痛いの?」
「えらいで、これは…ほんま、あかん…」
またトイレに行きたいと言い始めて、鎮痛剤が効き始めたせいか、痛みのせいか、体を起こしてふらふらと歩き始めた。トイレの入り口で待っていると、中からものすごい勢いで嘔吐する声が聞こえてきた。
尋常じゃない。
この場を離れるわけにもいかないし、中に入っていくわけにも…。
その時、看護師さんが廊下を横切っていくのが見え、呼び止めて事情を話すと
「え!!?あの状態で歩いた!?だめだめ!危ない。ダメって言ったのに…」
『なにー!歩いちゃダメって、わしゃ初めて聞いたわ』
その看護師さんはすぐさま嘔吐用の容器を持ってトイレに駆け込み、亮弦さんを連れ出してきた。
「清水さーん!トイレ行くときはナースコール!吐きたくなったらこの容器!鎮痛剤効いてふらふらするから、一人で歩いちゃダメ!」
「痛い…全然痛い…鎮痛剤増やせへんの…?」
「清水さーん、薬は効いてくるまで時間かかるのね!それとあんまり鎮痛剤打つと、今度痛みがわからなくなっちゃうから危ないの!次打てるの30分後だから!」
「30分…いてえ、気持ち悪い…」
「とにかく鎮痛剤はまだ打てません。吐き気止め追加できるか確認しますね。彼女さんあんまり心配しすぎちゃダメよ!男の人は痛みに弱いんだから!笑 はい!しっかり!」
「え…あ、はい!」
ものすごくちゃきちゃきした看護師さんで、この程度のイレギュラーどうってことない!という覇気に圧倒された。そしてイレギュラーにうろたえてた自分は看護師さんの「はい!しっかり!」の言葉で一気に心を取り戻せた。
数分たってくると、「痛い痛い」唸っていた亮弦さんがだんだん大人しくなってきた。痛みが引いてきたのと、鎮痛剤の副作用で意識がふわふわしてきたらしく、眠りそうな様子になってきた。
「リンちゃん…、ええとこで帰ってな…。今日はすまんな、いてくれてありがとう」
「うん、ちょっと落ち着いてきたみたいでよかった。そろそろ行ってみようかな。なんかあったらすぐ連絡して」
「おう…サンキューな…」
病院だし、先生たちもいる。
安心して任せられる。大丈夫だ。
そう思いながら電車で家に帰った。
事態が急変したのは深夜日付も変わった頃のことだった。
亮弦さんの家で制作作業をしていた私は、そろそろお風呂に入って寝ようか、と言うところで携帯に着信が。
発信者は亮弦さんだった。
『もう落ち着いたのかな?…いや、なんだろう?』なんとなくいつもの電話と違うと感じながら、電話に出ると知らない男性の声がした。
「今日、清水亮太さんの面会にいらしてた方でしょうか?」
「あ、はい、そうです」
「私血液内科の医師です。清水さんがね、夜になってからまた腹痛を訴えて、CTスキャンとったんですよね。で、結論からいうと外科手術が必要でして、ご実家に電話したところ関東のお兄さんに連絡してくれと言われたんですけれど、連絡つかなくて、清水さんが、あなたに電話してくれと言っていたから電話したんです。すぐ病院に来ることはできますか?」
「わかりました。すぐ向かいます!」
部屋着からジーンズに履き替えて、環七に向かった。
都内の深夜0時前後、タクシーはすぐに捕まり、飛び乗るや否や
「すみません、病院まで!」
と、言ったところで『ドラマみたいだな…』と、ふと思ってしまったのだが、それに対するタクシー運転手の返答が、
「◎◎病院ですね!わかりました!ち、ちょっと飛ばしますよ!しっかりつかまっててください!」
運転手までドラマモード入りやがった。が、しかし
「あ、お客さま、すみません…、そっちの方の道、あんまり詳しくなくて、ナビ通りでもいいですか…?」
不完全燃焼でしょんぼりすんなや。なんでもいいから、着けばいいから!
そんなやり取りもあったが、実際自分はかなりのパニック状態に陥っていた。病院へ向かうタクシーの中、不安と恐怖で涙が出てくる。
今までにも、高熱を出したり倦怠感で動けないなどの不調は見てきたけれど、こんな事態は初めてのことだった。
お兄さんのフェイスブックを探し出し、メッセンジャーで今の状況を送る。当時はまだご家族との接触も少なく、次兄さんとは奥さんやお子さん揃って一度お会いしていたけれど、連絡先などは知らなかったのだ。
メッセージを送っても既読がつかないので、おそらく眠っているだろうと推測して、自分がしっかりせねばいけないのだと思った。
無事、病院へ着き、守衛室で患者名を言うと、すぐに夜間面会で通してもらえた。
真っ暗な病院の中、非常口を示す緑の看板だけが明るい廊下を進んでいく。昼間のがやがやした雰囲気とは違って、とても静かだった。ナースコールや誰かが咳き込む声が響いてきて、それがまた静けさを助長するようなところがあった。
昼間とは全く違う真っ暗な院内。エレベーターで6階に上がって角を曲がると、廊下の先に一つだけ明かりが漏れている病室があった。看護師さんがバタバタと出入りしていて、そこだけ異空間に思えた。
中から唸り声が聞こえる。恐る恐る病室に入ると激痛に苦しんで言葉にもならない声をあげる、極限状態の亮弦さんがいた。私は一瞬意識が遠のいた。
看護師の一人が私の存在に気がついて亮弦さんに声をかける。
「清水さん、彼女さん来られましたよ」
「おう……有り難うな…」
ギリギリの声で彼は言った。
「お着替えするのでカーテン閉めますねー」
せわしく準備を進める看護師さんが、手を休めることなくそう言うと、さっとカーテンを閉めた。
『自分よ、しっかりしろ。』
そこに外科の先生がやってきて、現状と手術内容を説明が駆け足で始まった。
「彼女さんですか?夜分遅くにすみません。状況としてはかなり緊急な状態です。夕方一度落ち着いたのですが、夜にまた痛みが激しく出まして、CTスキャンをとったところ、小腸のどこかに穴が開いて、腸液と空気が漏れ出していることが伺えます。ただ、どこに穴が開いているかはお腹を開けなければわからない。原因解明と救命のために開腹手術が必要です。しかし、手術をするにあたって、抗がん剤を打っている状態なので白血球や血小板が足りず、感染症の恐れや縫合不全を起こす恐れがあり、最悪死に至ります。また、開腹手術なので全身麻酔が必要になります。専門医立会いのもと細心の注意を払って手術は行われますが、万が一のケースですが意識が戻らないことがあります。最後に、開腹手術にあたって輸血が必要になるのですが、これも万が一のケースで拒絶反応を起こして死に至ることがあります。これらの事項、この紙にまとまっておりまして、同意いただけましたら、それぞれ同意書のほうに代筆という形で、サインいただいてよろしいでしょうか?」
「はい、わかりました(わ、私が書かずに誰が書く。そうだ、名前を書け!)」
要するに、あれこれめっちゃ気をつけますが、最悪死にます。っていう話を5分足らずで説明された。
もうこの時になると恐怖などは一切なく、とにかく一刻も早く助けて、生かしてくれ、という気持ちでサインをした。
医師は同意書にサインをもらうと、すぐさま手術室へ向かってしまった。私が医師から説明を受けていた間も二人の看護師によって、手術室に向かう準備が進められていた。その二人とは別の看護師が私に向かって、「手術後はICUにはいるので、荷物を全部まとめて預かって欲しい。貴重品はICUへの持ち込み・管理が不可能なので持ち帰ってください」と話してくれた。
全ての流れに無駄がない。
「「せーの!」」
あっという間に亮弦さんは移動用のストレッチャーに乗せられた。
私は病室の出入り口でストレッチャーが出て行くのを眺めていた。
「ちんこいてぇぇー」
という言葉を残して、亮弦さんは手術室に運ばれていった。
(おそらく尿管にいれた排尿用のカテーテルのせい)
とても静かになった。
一人取り残された私はガサゴソと荷物をまとめ始めた。
荷物の大半は一箇所にまとめられていて、おそらく私が来る前にさっき荷物のことを説明してくれた看護師さんがまとめてくれていたのであろう。その荷物の中には当時入院していた病院で処方されたものではない薬や、タバコやライターも入っていた『あのタコ助野郎、目が覚めたらまた事情聴取と説教だな』と心で独り言をつぶやきながら、騒がしさの余韻に頭の中がわんわんしていて、説明しがたい興奮状態にあった。
大きなバッグを抱えて病室を出る。
ナースステーションから漏れた光で、ぼんやりと少しだけ照らされていたデイルームのベンチに腰をかけ、すーっと熱が冷めていくような感覚。午前1時半。
窓の外には東京タワーが灯っていた。
東京タワーを眺めながら、少しだけ泣いた。
気持ちを落ち着かせて
「さて、と!」
亮弦さんの携帯を開く。
通話履歴から”おかん”を選択して発信ボタンを押す。まだ顔も見たことのない、亮弦さんの"おかん"の声が聞こえてきた。
「はい、もしもし」
「夜分遅くにすみません、あの、亮太さんとお付き合いさせていただいている…」
「まあ、リンちゃんね。いつも亮太がお世話になってます。本当に、どうもありがとう。さっき病院から連絡もらったので事情はわかってます。今どんな状況ですか?」
「あ、いえ、こちらこそ。えと、亮太さん先ほど手術室に運ばれました。小腸に穴が開いているようで、穴の位置の究明と処置のためには、開腹手術が必要だということで。同意書には私がサインさせてもらいました。」
「そうなのね。どうもありがとう。明日の午前中にはそちらに行くけど、あなたはずっと病院に居られるのかしら?」
「はい、そのつもりです。このあとどういう流れか、まだよくわかっていませんが、また手術が終わってからご連絡しますね。夜分遅くにすみません」
「いいえ、本当にどうもありがとうね」
電話を切ると、また静寂が戻ってきた。
改めて亮弦さんの荷物を仕分けし始める。
ごちゃごちゃに突っ込まれた服は、洗濯物なのか着替えなのかよく分からないものばかりなので、「臭い」「臭くない」などと匂いを嗅ぎながら、ゆっくりとたたんで、袋に詰めたり、カバンに戻したり。
それが終わると東京タワーをぼうっと眺めていた。
少しでも眠りたいけれど、恐怖と不安で頭が休まらず、その上、こんな状況にもかかわらず空腹が沸いてきて、自分の中で感情が押し合いへし合いし始めた。
亮弦さんが手術室へ向かってから3時間ほどが経っていた。
空腹がいよいよ無視できなくなってきたが、デイルームは飲食禁止。場所を変えて、というほど動く気にもなれず、亮弦さんの荷物の中にあったビスケットを見つからないように一口で頬張って、暗がりでこっそり食べ始めた。と、そこになぜタイミング悪く看護師さんが来てしまったのだろうか。
「手術が終わりまして、医師からの説明がありますのでお越しいただいていいですか?」
「ふぁい(もぐもぐもぐもぐもぐ)」
『彼は無事ですか!』『手術は成功したんですか!』
とか聞きたかったのに、ビスケットに邪魔されて何も聞けなかった。とはいえ、看護師さんの様子から、無事に終わったことは察せたのでもういいでしょう。
手術室へ向かうと、先ほど駆け足で同意書の内容を説明してくれた外科の先生が、銀色のトレーを持ってできた。
「手術は無事終わりました。今はまだ麻酔が抜けるのを待っているので本人には会えませんが、手術内容をご説明いたしますね」
そう言って、銀色のトレーを私の前に見せてきた。
『あ、亮弦さんの腸だ』
なぜか説明を受けなくても、それが亮弦さんのものだとすぐにわかった。そりゃあ他人の小腸を持ってくるわけがないのだから、亮弦さんのものだと理屈でも説明がつくが、しかし多分、いろんな人の小腸の切れ端を10個くらい並べられて、その中に混じっていても、自分にはわかりそうだなと思うくらい、亮弦さんのものだとはっきりわかった。あれは不思議な感覚であった。さらに言えば、なんだかその小腸がすごく愛しいものに思えて、持ち帰りたい、あわよくば食べたいと思った。
この感覚がなんらかの異常なフェティシズムに直結するかどうかは知らない。(後日、回復後に『小腸見せられて食べたいと思った』という出来事は本人に話した。)
ここから先は、
またいつの日にか
前に書いた『記憶の断片』の
省略した中間部分にあたる記憶の一部
記憶と言いつつ、半ば記録
毎日のように短い日記をつけていたので
それを見ながら記憶をたどる
本当に長いスパンだけれど
自分の心に負担にならない程度に
いい具合で心の療養になるように
ゆっくり書き出していきたいな
*1レジメン 治療計画のこと。抗がん剤は主に多剤投薬で、複数の薬を掛け合わせて使用する。3日間で投薬の場合、何時から何時までどの薬をどのくらいの量で、といった薬の詳細とタイムテーブルのようなものが提示される。


