記憶の断片 | 燐ブログ

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五感を研ぎ澄ませ、心を枯らすな

 

消化不良を起こしてる記憶に

向き合ってみることにした

亮弦さんとの記憶

 

自分が破綻しないために

必要な気がした

 

 

 

 

 

 

あらゆる絶望が並べられても

その全てを凌駕して

彼が生きているという

圧倒的な希望が

私を生かしていた

 

自分が彼とどう生きていたか

その断片を少しずつ

時々書き起こそうと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

「面談」

 

病院の先生は、頑なに私のことを「お友達さん」と呼んだ。

 

先生のその呼び方に、彼は嫌な顔をしながら「友達やなくて彼女です」といった。

 

病院の先生に悪意があったわけではなく、私に対する配慮だったのかもしれない。「血縁があるわけでもなく、籍を入れているわけでもない間柄。いつでもこの状況から逃げたっていいんですよ。」私も彼もいる前ではっきりとそう話していたし、だからこそ"友達"という彼と距離のある位置づけをしたのだろう。

 

担当医との面談に立ち会ったちょうど1年前の今日。

 

彼と、彼の次兄さん、そして私と担当医。4人は都内某所の病院の小部屋にいた。

医師の口から病気の現状と、これからのことを聞いたのは初めてだった。それまでは彼から聞く話が全てで、なるべく全容を話してくれていたし、医師の説明内容と大差があるわけではなかった。しかし医師から説明されるという状況は、かなりヘヴィな圧があった。病気の進行は止められないこと。最善を尽くすけれどいつ何が起きてもおかしくない状況であること。相当の覚悟がないと治療を進められないこと。

この面談の前日、二人で特急に乗って川越まで遊びに行っていた。彼は全然元気だったし、『本当に病気は深刻なのかな?』と思うくらい、元気だった。

だから目の前に示されている検査結果の数値は、何かの間違えなんじゃないかな?と思うくらい。しかし現実、かなり危ない状態であることは紛れもない事実だった。

話は病気の現状から、闘病に関して各々どう考えているのか、と言う質問になった。医師は私に「どういうつもりで一緒にいるのか」と訊いた。医療のプロから突きつけられる「半端な覚悟なら、足手まとい」と言ったような言葉に、はっきり言うもんだなあと驚きがあったが、ひるむことはなかった。

「こうして彼は今生きていますし、誰よりも近い場所で、彼の考え方を知っていたいですし、できる限りの力になりたい。」そんなようなことを答えた気がする。

 

 

 

「あんな言われ方、俺やったらブチ切れとったわ。やっぱリンちゃんすごいわ。リンちゃんが話してくれたこと、ほんまに嬉しかったで。いつもありがとう」

面談の日の夜、電話越しに彼はそう言っていた。

 

「なんで彼女やゆうてんのに、お友達さんっていうんやろな。羨ましいんやろな。あの先生モテなさそうやもんなぁ」

などと言いながら彼は笑っていたような気がする。


 

詳細の電話の内容は少しずつ記憶が薄れているけれど、印象的な話はなんとなく覚えている。

そう、覚えているうちに、書きたくて、書き出してしまった。

1年前の今日、担当医との面談があってからが、本当の闘いだった。

 

 

それ以降の担当医との面談は、全部出席した。

その度にお友達さん、と呼ばれ、彼女です、と訂正された。

 

初めての面談から一月半

7月頭に彼は腸閉塞を起こし、病院内で倒れた。

(この詳細はまた改めて書こうと思う)

その手術後、四日市からお母さんがやってきた。このとき初めてお母さんと対面した。

小柄な方だがハキハキとしていてすごくパワーがあり、三兄弟を育ててきた経験からなのか、貫禄のようなものを感じた。

手術の内容や今後の処置について説明を受けるために、お母さんと次兄さんと私は医師と面談した。

 

「手術は無事に終わり、1週間もあれば普通に退院できると思いますよ」

という話であった。大事に至らなくてよかったね。そんな感じで一安心してそれぞれ帰路に着いた。

 

 

腸閉塞の手術から6日後。

事態は意外な方向にトラブルが生じて転換してしまう。

昼過ぎ、次兄さんから連絡を受けた。

「鎮痛剤を自己判断で過量投与して幻覚をみて大暴れしたらしい。今病院向かってるけど、ひとまず連絡したよ」

 

大急ぎで病院へ行くと、次兄さんが病室の前にいた。

「おお、リンちゃん。今、鎮静剤打たれて眠っとるし、人工呼吸器ついとる状態なんだよね。から…んー、会ってもあんまり意味ないかもしれん…」

なんとなく渋るような言い方だったが、自分は彼の姿を一目見たかった。

病室に入ると、彼は鎮静剤を打たれ人工呼吸器を繋がれて、強制的に眠らされていた。目は半開きで白目を剥きかけていて、薬物を警告する記事などで見かける薬物中毒者のような、正直目も当てられないような姿だった。その姿を見ても、自分が幻滅したり、気持ちが冷めなかったことが、今となっては誇らしくも思う。

 

退院間近だったのに、過量投与してしまった薬物を体内から出し切り、退薬症状などが出ない状態にするために、鎮静剤で強制的に眠らされての昏睡状態を余儀なくされた。それは10日間にも及んだ。

時折うっすら目を開いたりするときは意識がやや覚醒していて、10文字くらいの筆談ならできた。とはいえ、頭がぼやけているようで、文字もはっきり書けず、書いている途中に気を失ったりと、意思の疎通はほとんどできない。

それでも私は毎日病院へ行った。短い時は30分ほど、長い時は何時間も、目を覚まさない彼の横にいた。

 

 

この頃、看護師さんが心のケアのためにといって、私と二人で面談してくれることがあった。

「お母さんやご家族、医師に直接言いにくいこと、あったりしませんか?」

と言われたりしたが、お母さんに対しても医師に対しても、思っていることははっきり言っていた方なので、あまりないです。と答えた。

「それなら良かったです。なにかあれば、いつでも言ってくださいね。それから、彼女さんは…、その、病気の状況はご存知なんですよね…? 正直なところ、彼が今ああして昏睡状態で、寝たきりですし、…あのお辛くないのですか?」

と聞かれた。看護師さんはちゃんと彼女さんと言ってくれるんだな、と思った。そして看護師さんの問いは率直な疑問だと思った。眠っている彼の横で何時間もずっと付き添って、どういう気持ちでいるんだろうと。

「彼の病気のことはよくわかってます。だからこそ生きてる今、少しでもそばにいたいんです。彼が死んでしまったらいよいよ本当に辛いでしょうけど、今どんな状態であれ、生きてますからね。大丈夫なんです。」

その言葉に、看護師さんの方が「強いんですね…」と言いながら泣き出してしまったので、私は少し困ってしまった。

 

 

昏睡状態の彼を見舞いに、お母さんはなんども三重からこちらへ出向いた。明らかにお母さんは疲れていた。

「あの子はもうダメなのかもしれない…」

「この先どうしたらいいのかしら…」

心の底からの戸惑いを私は何度か聞いた。時折涙を浮かべて。

その度に私は、

「大丈夫です。今、彼は生きてるんです。今までだってなんどもやばい状況から復活してきたじゃないですか!彼の回復力はどこの病院の先生たちも異例の回復力だって言ってるし、彼は普通じゃないんですから。いい意味で。だから大丈夫です!」

根拠などないが、大丈夫と言いたかった。

お母さんに言いながら、自分に言っていたのかもしれないけれど。

 

この時期私は、自身のバンドの2マンライブがあり、準備に追われていた。忙しいことで気を紛らわせている反面、ものすごくしんどかった。今なら言える。本当にしんどかった。

当時この苦しみを公に言えば、純粋な気持ちでライブを見てもらえなくなると懸念していた。心配かけたくないしいつもどおり接して欲しくて、メンバーにも言わないままでいた。

なにより、彼自身が病気のこと込みで自分を見られたくないと考えている人だったので、なるべく病気に関わることは周りに漏らさないようにしていた。

もはや誰かに助けを求めたかったが、誰に助けを求めていいのかわからず、とにかく私は私の母に電話をした。

 

「…っていう経緯で、彼が今、昏睡状態で、それでも一緒にいること、どう思う?」

私は恐る恐る母に聞いた。自分の意見は述べず、母の意見を聞いてみたかった。

 

「好きなんだったら、一緒に居続ければいいのよ。生きてるうちしか一緒に居られないじゃん、だって、ねえ?」

母の答えは自分と一緒だった。本当にこの言葉に救われた。

 

「だよね!そうなんだよ、生きてるうちしか一緒に居られない!それな!よかった。うち間違ってないと思ってた!」

泣きながら笑いながら。

このとき、なんの迷いもなく答えてくれた母に今も感謝している。

 

 

 

7月下旬、昏睡状態の彼が目を覚ます2日ほど前のこと。

 

病院側からご家族全員揃った状態での面談をお願いされた。

三重からお父さん、お母さん、長兄さん、関東に住む次兄さん、彼の家族がみんな集まった。

お父さん、長兄さんと私は初めて対面する日となった。

「あなたがリンちゃんね。いつも話には聞いてるよ。こんな形で初めましてでごめんね。うちの馬鹿息子をいつもありがとうね」

お父さんは朗らかな柔らかい口調でそう言いながらニコニコしていた。何が起きでも動じなさそうな、大きさと柔和性。そうか、この人が彼のお父さんだから彼があるのだな。と思った。

 

担当医、看護師数名がやってきて、少し広めの面談室でみなで机を囲んだ。

その面談に彼本人だけがいなかった。

 

「正直言いますけれど、病状はかなり深刻な状況です。ですがこの病院ではもう治療を断念せざる終えません」

 

薬を自己判断で過量投与したことが問題行為であったとして、病院側から入院拒否をされた。

それは、事実上この病院での治療の打ち切りを意味していた。

 

「薬の扱いに関して問題があるということはカルテに書かざるを得ません。しかしながら次の病院を早急に見つけなければ、命が危ないです。腸閉塞が起きたということは、かなりの範囲に浸潤している可能性がありますし、今は大丈夫だったとしても、腸閉塞が再発すればすぐにでも命に関わる状況になるでしょう。次の病院を探すことに協力はできますが、簡単なことではありません。本人はどのような意思でいるかわかりませんが、都内に一人暮らしで治療をしていける状況ではありません。24時間体制で、誰かすぐにでも対応できる環境を作ることが必要になると思います」

医師の話はざっくりそのような感じだったが、もっと辛辣なことを言われたような気がする。

 

その話を踏まえて、家族一人一人がどういう気持ちで今後に立ち向かおうとしているのか問われた。

「あいつがやりたいことは、四日市にはない。東京には一緒にいたい人もいる。あいつは意地でも東京で暮らしたいというだろう。あいつの言う通りにさせてやりたい。」

「四日市に連れて帰って、安心して治療をさせてやりたい。あの子が望むなら、そうしたい。」

家族の中でも意見は少し違った。しかし一貫していた想いは「あいつはとにかく我慢が苦手だから、本人がやりたいようにやらせてあげたい」その一点。

「お友達さんはどうお考えですか?」

(確かこのとき、お父さんが「お友達やなくて、彼女です」って訂正してくれた気がする。記憶が定かじゃないけれど…)

そう問われて私は「本人が望むようにしてほしいし、その全てに寄り添って協力したい」と答えた。

 

 

頭はすごく冷静だった。

面談の時はいつもそう。

 

 

"事実"は感情なんて関係なく、あるがままにそこにあるだけ。

いくら辛辣なことや、散々な現状を聞かされても、感情的になったり泣くことは一切なかった。辛くなかったわけじゃない。でも辛いものは乗り越えられる。彼は生きている。それだけでものすごく強くなれた。

 

 

面談が終わって、家族と私は眠っている彼のところへ向かった。

ちょうどほんの少し意識が覚醒しているタイミングだったようで、こちらに目配せして、少しだけ手を振った。

医師から聞かされた内容が内容だっただけに、みんな少しこわばった表情でいた。「うちらそろそろ帰るで〜」とみんなが手を振ると、彼はこっちに来いと言わんばかりに手でおいでおいでと強いジェスチャーをし、筆談したいと意思表示をした。

フラフラする手にペンを渡すと、スケッチブックにガタガタの字を、ゆっくりと書きなぐりはじめた。

「わ…か…わ?れ?…ぎ…わ…し?は?……あ、し?」

彼の字を追いながら、みんな何を書いているのか当てっこ状態であった。

「あ、わかれぎわはあくしゅやろ?」

私が言うと、彼は「それ!」と言いたげに、私の方を指差した。

そして、みんなの方を見てニヤリと笑った。

「ははは!そりゃそうや!別れ際は握手やな!ははは」

お父さんが大笑いした。つられてみんな大笑いした。

寝たままの体勢の彼の手を、家族は順繰りに固く握った。私も最後に手を握った。みんな目に涙を浮かべて、笑っていた。

 

この家族の中で、彼は育ってきて、彼は家族に愛されて、彼も家族を愛していた。彼という人間がどうやってできあがったのか、ストンと納得できた1日だった。

 

「リンちゃん今度うちに遊びにおいでね!今日はありがとうね」

そういうとお父さんと長兄さんは三重へ、お母さんと次兄さんは次兄さんのおうちへ帰って行った。

 

私は一人、彼の家に帰った。

 

 

 

暗い部屋に帰り腰を下ろして、先生に話されたことを思い返していると、これから先への絶望感が一気にこみ上げた。不安や恐怖が呼吸を圧迫するように、胸いっぱいになって、一人で声をあげて泣いてしまった。

『早く目を覚まして、この恐怖に一緒に立ち向かってほしい』

そう思いながら、私だけの記述が続く彼との交換日記に、彼のお父さんと長兄さんの似顔絵を描いて、「初対面めちゃくちゃ緊張したわ〜!」と書いた。

 

 

 

キリがないので思い出話は今日はここまで

 

書ききることはないと思うので

また気が向いたら書き起こそう