『人間』
それは完成された生き物ではない。
過去と未来は一直線上にあるように感じるが、
その線(みち)には多くの壁や落とし穴があり、
外部からの刺激によって
未来への線をとんでもないところに自ら引いてしまう人は数え切れないほどいるだろう。
どれだけ正義感に満ちた人間でも、犯罪に染まってしまうこともあれば
悪魔に心を売ったような人間が、人を救うことに全力を注ぐ人生を送ることもある。
人間は他の動物より遥かに優れているように思うが、
自分の生きる道さえも断言できない、未完成な生き物なのである。
職場で多くの人と触れ合えば
人間の汚れてしまった心を目にすることも少なくはない。
『勇(いさむ)』。 そういう名の客がいる。
彼はもう70歳をこえており、髪の毛は黒いものの
頭のてっぺんはツルツルで円形にハゲているのだが、
前頭部上の部分は髪が途切れており、そのちょうど真ん中に
周りの髪から少し距離を置いてピロンと一つの束で髪が生えている。
わかりやすく言えば、ハゲの中でも一番気持ち悪いハゲだ。
そんな彼は背が小さく、こちらからすればイジリたい放題な存在だ。
だがしかし、そんな彼の容姿は
心の中に住む魔物を隠すためのカモフラージュにしか過ぎない。
少し前のことだった。
その日も勇はやってきた。
彼は周りのことを気にすることなく、自分の荷物を堂々とフロントテーブルに置き、こう言った。
『今日も君は美しいね。』
フロントは基本僕一人だが、そんな僕の顔を見ることもなく
少し離れたところにいた大人しい女性スタッフに声をかけた。
僕がそのスタッフの方を振り向くと、彼女は困った表情で適当に返事をした。
そしてまた勇の方に目を向けた。
すると彼の中の何かが動き始めていた。
口元はニヤリと不気味に笑い、目はまるで汚い欲望に満ちた化け物のように変わり、
そしてただハゲ散らかしていただけの髪の毛が、少しゆらりと動き
まるで獲物を狙う無数の蛇のように見えた。
その無数の蛇達を頭の上に乗せた男はさらにこう言った。
『お姉さん、
手、触らしてよ。』
な、なんだこエロジジイは・・・!
僕は何か強い言葉を彼にかけようとした。
しかしできなかった。
彼はフロントテーブルから僕らの方に身を乗り出し、『握手しよう、握手。』と自らの欲望にまかせて彼女の方に腕を伸ばしていた。
さっきまでいた頭の上の蛇達はさらに姿を変え、無数の針の山のように
逆立っていた。
その姿はまるで、、、妖怪・小豆洗いのようだった。
普段の小柄なハゲジジイとは違い、真っ黒な妖気を頭部の毛穴から大量に噴き出し、
針のように逆立った毛達は、妖気が噴き出す勢いで抜けてしまわぬように
必死に毛根にしがみついていた。
そんな壮絶な戦いが繰り広げられる頭部が、誰も歯向かえない程の恐怖感を僕らに与えていた。
女性スタッフがひたすら拒絶しなんとか妖怪を追い払った僕らは、
疲れと安心とで大きなため息をついた。
少し間を置いて、彼女が重い口を開いた。
『彼、、、昔から来てる常連客だから、、、
きっと、気遣いとか遠慮とか
どんどんなくなっていってしまったんでしょうね。
途中で注意してブレーキをかけてあげれなかった私たちにも責任があるのかもしれないけど、、、。』
大人しく優しい彼女なだけに、自分を責める姿に僕は少し悲しさをおぼえた。
うつむいたままの彼女は、僕にそう話した後
ゆっくりと奥の事務所へと戻り、長年一緒に働いている女性スタッフの仲間に
『勇のヤツ、手ぇ触らしてとか言いおんねんきっしょいわぁ!!』
そう叫んだ。
それからまた少し時間が経ち、さっきのことを思い出していた僕は、
店員と客との馴れ合いはとてつもない恐怖を生んでしまうのだと
再度そう感じていた。
今思えば、、、
アレは小豆洗いみたいな可愛いもんじゃない。
魔物だ。
馴れ合いが生んだ魔物。ISAMU。
彼のことをそう名づけたときはまだ、
自分が次の被害者になるなんて知る由もなかった、、、。
続く。
