そして合格発表は父が見に行き、母が長男を受験に連れて行く予定でしたが、前の入試で400番代だったので「無理だろう。それよりいったことがない母が受験についていくより、学校の場所知ってる父が連れて行くほうがいい」との結論で

父が受験に同行、母が合格発表。
ただ母が余りに不安がるので私もつかれきってるけど同行(私の子供ですし)

発表の比較的前に着いたんですがもうずらーっと並んでて。
関東から受験にきた子とかは合格発表見に来てるんですよね。
そして

番号はありました。

母は泣きじゃくり、父に電話かけても父に伝わらないくらい。
私は番号を写真にとり、メールで送って合格したよ、ありがとうと。

ふたを開けてしまうと、受験した学校全部受かりました。
拍子抜けでした。

ただ母は「こんなに遠いのに通えるの?」ばっかりで。
長女にもメール。長女は塾の自習室でメールをうけとり、心のなかで大喜びしてくれたそうです。

「だってあんなにがんばってた弟が希望校いけないなんてかわいそうじゃん」

同じ塾のクラスメイトでも長男より成績いい子でも落ちてる子もいて。
受験は運も必要。
つくづく思いました(入学式の日、校長先生が入試受けなおしたら半分くらい入れ替わる可能性があるともおっしゃってましたし)

そして次は長女の私立受験です。

わたしは高校受験のとき大阪にすんでましたが他府県受験はあまりいませんでした。
こっちは県内1校県外1校受けるのが標準で。
2校とも合格。

それからすこし長女はだれはじめました。
ご飯も食べられず、もう屍みたいに生きている私。
少しの間精神安定剤飲みすぎるくらい飲んでました。

でもまったく動けない日々。

少しずつ長女が変わって「うまくいくのかな?」と気持ちがすーっとしていき、すこしずつ動けるように。

ここら辺は動けるとき日記関係の処分などしてました。
死ぬためにいろんなものをとりよせたり。

ただ、受験が終わったら死のう。

それだけで生きていきました。

そして1月。
中学受験がはじまるのでした。
希望校は休みが多いと受験資格がなくなるので(学校を休んで塾に行っていい成績とるような子はいらないというポリシー)願書を出す12月末ごろまでは岩にかじりついても学校に行ってました。

1月からは地獄のような勉強の追い込みでかわいそうなくらいくたくたになってる長男。
そして中学受験は地域によって解禁日がちがうんです。
北海道が早くて私たちの住む関西は今年1/18から解禁。

北海道の学校を受験して合格(コレは受験になれるためとやっぱり滑り止め)ただし、400番代の合格。

希望校どこも無理かも?という恐怖のときに最後の模試でぎりぎり合格圏内に入りました。
そして本番
本命校は2日間かけての受験、滑り止めは本命校の午後にテスト。
そして次の日も入試。
くたくたになってる長男がいました。
で、秋ごろからもう塾にはいかないけど高校にはいきたい。
だから塾のノートとってこい!と無理難題ばかり言う長女にある日言いました。

「私が悪いの?
私の病気のせいでこっちに住むことになったから、長女くるしめたの?
私が悪いの?どれだけ謝っても許してはくれないの?
死んだら許してくれるの?
死んでやるよ!死んでやるよ!
死んだらいいんだろ!!!

でも中学卒業したら出て行け。
親の義務は中学までだ!

勝手にいけ。
しんでやる!!!!!」30分以上ずーっとこれを叫び続けてました。
いわゆる発狂レベルでした。

車の中と人があまり来ない駅だったので誰にも気づかれずに発狂してました。

娘は「行けばいいんでしょ!」ときれて塾に。

私はその後散々車の中で泣いて帰宅。
なきすぎて泣きすぎておきてることもできないレベルの疲労でした。

長女はその日からすっと起きて学校にいく、塾に「遅れるから」との理由で制服のままいくこともしばしば。

ただ、もう私は壊れきってました。
泥のように眠る日々。

あるとき枕元においてある延長コードに手が触れて感電しておきました。
感電っていってもびりっときたから起きる、ではなく心臓がどくどくいうレベルでの感電。

感電自殺は無理だなと思った出来事でした。
自殺の方法ばかりネットで探す日々。
そしてふとみつけた「発達障害」の文字。

発達障害ってなに?と思いみてみると。

私がその症状ぴったりあてはまってました。いわゆるアスペルガー。
かかりつけの精神科の先生に何度も訴えたんですが「らむねさんはそういう症状ないよ?ぼくも発達障害専門にみてるからね。でもあんまりきになるんだったらテストしようか」

結果はアスペルガー、ADHDともに真っ黒判定でした。
「らむねさん、発達障害だわ……」
そしてもともとの主治医が遠いので(特急で2時間)比較的近いところに転院。

そして発達障害のいろんなテストをうけて「らむねさんはアスペルガーではなく、ADHDです」
と。
「ADHDってあの暴れるやつですよね?学校で授業うけられないとか……」
「あれは男の子の症状だよ」

生きにくいのは私の発達障害だったことが40歳で発覚。

長女もこのテストうけさせたいけど絶対に嫌がるので先生といろんな相談をして、薬の量が半端なく多いのでそれをへらしてからADHDの薬を投与。
受験期に新しい薬にすると変調がこわいので4月以降に。

長男の希望の学校出身だったのでそこらへんも少し相談にのってもらっていました。

ADHD。これは子供だけの病気じゃない、これが悪化するとうつになる人がおおい。
私はその状態にすっぽりと当てはまってました。
長女はなんと県でトップの公立に受かりました。
内申点のことがあるので長女は学校ではいいこ、家では精神的に追い詰める日々でした。

長男も同じ頃に中学受験で休みもなく勉強。
ただ私に同時に2人の面倒は無理すぎるのですべて私の父が長男の面倒を見てくれました。

塾の校舎が6年になって遠くなったので毎日のように学校に車で迎えにいって家でできるところまで勉強やって、塾に。
11時ごろの帰宅。

長男はだんだん感化されていきたい学校のレベルが上がって必死で勉強。
毎日泣いて泣いて勉強してました。

でも合格圏内にはいらない成績。
でも行きたい。
その繰り返しを横でみながら長女を塾に送ったり、なだめたり。

車で送ってたんですが、運転席のシートを蹴る、怒声を浴びせる。
塾についても「いかねー」の一点張り。
毎日泣いてばかりでした。

長男はあんなにがんばってるのに長女は「自分だけがしんどい思いをしている」と思い込んでるような態度でした。
長男は12時ごろまで勉強して「ねろ、電気消すぞ!」と怒鳴られなきながらベッドに入る日々。

私は子供の勉強部屋の横で寝てたのでそれを毎日のように見てきました。

次女はまだ小学4年なのであまりかまうことはありませんでした。ごめんね、次女。

でも、だんだん追い詰められて「死んだらいいのかな」とばかり考えるようになりました。

当たり前ですが、勉強をずっとサボってた長女が女神様においつくわけがありません。でも親心としては、女神様と同じ学校だったら、またひどくはならないだろう、と。


小学校時代の悪友は中学受験をして、その年から女子を受け入れるとのことで女子の合格率はほぼ100パーセントだったそうですが、そこに言ってくれたのが幸いした。


中学校にいっても悪友は駄目なままでした。学校に勉強道具全ておいておく、塾にも置いていく、クラスメイトに教科書全て捨てられても、置いていく、家で勉強は絶対にしない、段々と長女のせいではなかったのかも?と思ったみたいで、中学生になってから何度も一緒に遊びに行こうと誘われるように。


女神様は公立2番目の学校を目指してました。長女がいけるわけないんですが、長女は長女なりにすこしずつ夢が出来、そこに向かって行きたいとの目標が出来ました。


長女は実は努力型の人間です。今中3ですが、ココ最近は実はトップ校とその次を希望校に書いてますが、確実圏に入りました。

少しココで長女の話はおわります(まだ受験も終わってないので)

引っ越した先で長女がおかしくなりました。言葉が通じない、友達と引き離された、など色々あるとおもいます。長男と次女は大丈夫でした。


長女はその頃2年生で4年から暴れるように。

学校を抜け出す、先生に喧嘩を吹っかける、家を壊す、私に怪我を負わせ警察沙汰になるなど、色々ありました。

ボロボロになってるころ父は「旦那の元にかえせ、あいつだけはゆるせない」と。まだ4年なのでそれだけは、と母と2人で必死に説得する毎日。父と長女が殴りあいも珍しくありませんでした。


実際本格的に暴れるのは5年になってからですが、4年の頃からおかしかったんですよね。後から考えると。

長女の恐ろしさは長男、次女ともに知ってるので、逆らいません。

元々からだが大きかったので、暴れるときも半端がなかったので。


そのころは長女のことくらいしか記憶がありません。

長女の時代はPTAに当たることもなく、何とか無事に卒業まで行きました。

その頃付き合ってた友人が、抜け出す、宿題はしない、などを率先してたので、娘もそれを真似てました。

でも友人の母は、長女が悪いと思い、遊んでは駄目だといわれ、そういわれて帰ってから次の日。学校へ行こうとしなくなりました。なにがあっても行かない日々。学校に電話するのも辛いので、先生に直接メッセージすることに。

カウンセリング、児童精神科など色々行きました。自分もボロボロですが、動かないわけには行きません。


どうやっても駄目でしたが、余りに暴力が酷いので精神科の閉鎖病棟へ入院することに。

約1ヶ月入院してました。

家にいたほうがましなので、少しはましに。でもあまりいい状況とは言えないまま中学校へ。

中学校でもぬけださないものの、寝る、反抗するは変わりませんでした。

私のうつはどんどん悪化してますが、どうしようもありません。


中学2年になって職場体験があり、そこでYちゃんに出会いました。このこがすごく素敵ないいこだったので、長女はそのこに感化され、すこしずついい方向に。

夏休みを過ぎた頃、「塾にまた行くか」と父が言ってくれて、長女もYちゃんとの出会いのあと、塾にいったほうがいいのかもと考えるようになってたので、行くことになりました。

こっちにきて入ってた塾ですが、同じ校舎はトラウマがあるとのことで、別の校舎に。

Yちゃんもその塾に通ってたので、本当に目に見える形でよくなっていきました。我が家では「女神様」と呼ばれています。

顔もいい、性格もいい、成績はオール5をとったこともある、完璧なこです。でも人当たりもよく、そのこと同じ学校に行ってほしいな、と考えてました。でも、当たり前ですが、目指す学校のランクが高かったんです。

結婚するまでは遠距離もあって、早めに結婚しようってことになり、1年半くらいで結婚。引越しでした。


引越し先は見知らぬ地でした。

方言も、味覚も違う、テレビも違う、何もかも未知の世界で閉じこもりがちに。

知り合いに連絡する方法が電話とfaxしかない時代です。ネットもないので、昼間は一人ぼっちでした。

その頃からおかしくなり始めたと思います。


でも子供が出来て、数年は楽しかったです。3人目を産むまでは。


3人目で妊娠中毒症になり、出産後大量出血と、貧血で「眠れば死ぬかも」って状況に。

体の自由も余りきかなくなりました。すぐ疲れて、寝転んでないといけない、急に汗がでてとまらない、めまいがとまらない、寝たきりが続きました。

どうしようもない頃、働かないといけないことがあり、働きだすことに。

でも体は動きません。心療内科に行くのを進められ行くと、「パニック障害」だと。

そしてどんどん酷くなり、「うつ」も追加され、最終的に「うつ」が酷くてどうしようもないじょうきょうにまで追い込まれます。


保育園でPTAにならないといけないのに、動くこともままならないのにできるわけがない、自分の面倒も見られないのに、子供の面倒を見ないといけない、もう追い詰められました。


母に相談して、子供と4人で実家に引っ越すことに。


小学校のころは父は私に勉強を必死で教えてました。寝てても父が帰ってきたらたたき起こされ、眠いながらもずっと勉強。

3年生くらいまで続いてたとおもいます。でも、父の思い通りにならない私は見捨てられました。

諦められたんですね。


中学も何とか上がり、中学ではいじめは減りました。

先生主導型だったので減るのはあたりまえなんでしょうが。

中学になった時、苛めていた先生が私に「こんにちは」といってきましたが、自転車に乗ってた私はそっちを見ず、そのまま去りました。意味が分かりません。今でも。


中学でも勉強すればいつかは報われるといわれ、勉強してましたが、報われたことは一度もありませんでした。

勉強してもしなくてもほぼ同じ点数。

段々と努力しても無駄ということを身にしみて感じるようになりました。

運動も出来ず、音楽も出来ず、勉強も出来ず、いいところなんてなにひとつありません。

幸い先生に嫌われることがなかったので、何とかしたから数えたほうが良いくらいの高校へ進学。


高校時代が今から考えると楽でした。相変わらず成績は2ばっかりでしたが。

クラブ活動も頑張りました。


高校を卒業して、大学に行けといわれてましたが、正直コンピュータの世界に行きたくて専門学校の学校見学会に行ったのがばれて殴られました(元々すぐ殴る親なので、またかって感じですが)


結局親に学校を選ばれ合計9校受けました。でも所詮成績表に2がいっぱいある成績です。

あっさり落ちました。

親はどうしても4年生の大学に行かせたかったので、親戚にツテを願うくらいまで!

結局父が海外赴任でいなかったので大学に受からない、どうしようもない状況なので専門学校に行くことを許してもらえました。

父が日本にいたら浪人させるつもりだったそうです。


コンピュータの専門学校は楽しかったです。一番やりたかった分、何もかもが新しいことばかりで(今みたいにコンピュータが普及してない、MS-DOSの時代です)コマンドも一生懸命覚えて、プログラムも頑張って。

楽しかったです。

その頃失恋していまだに傷が癒えてないんですが。それはまた別の話ですね。


その頃バブルが崩壊して、就職先がクラスメイトで優秀なこでも中々決まりませんでした。

プログラム開発希望でしたが、結局はCADの仕事に。2D CADなので今の時代の図面は描けません。


そして趣味の世界で今の主人と出会い結婚しました。

ラムネともうします。

うつになって9年。今までの出来事をつづっていきたいとおもいます。


まずは記憶も乏しい年少期から。


保育園には入れてもらえませんでした。喋ることの出来ないこだったので、却下されて幼稚園に。

私は幼稚園が大嫌いでした。

家でうさぎのぬいぐるみとあそんだり、絵を描いてたり本を眺めてるのが大好きなのに、幼稚園は外遊びの時間があります。

外でも動かず地面に絵を書いてました。

毎日祖母に引きずられながら必死で抵抗してました。

行きたくなかったです。


小学校は親の都合で1年の夏休みに転校することが決まってましたが「誰にもいっちゃだめ」といわれてたので、そのまま仲良しのお友達にも何も言わず転校。


ただ、元いた場所が祖母宅のすぐ傍なので、その友達にすぐ再会。でもムシされました。

向こうは数人いたんですが、全員無視でした。


4年ごろからいじめが始まりました。

両親に転校したいと必死で訴えるも「苛められるのがわるい」「戦え」「泣くから駄目だ」と全否定。

登校拒否してました。

熱がないのにコップに体温計くっつけて熱がある振りして、毎日頑張りました。


5年から6年は先生にいじめも受けました。

「はい、みんななんでラムネさんのこと苛めるの?駄目なところをみんなで最低ひとつづつラムネさんの悪い事をいってね」最悪なのはこれでした。

私が教卓の横に立たされ、1時間みんなが「何故私をきらうのか」を言い合うんです。

友人は「ありません」とこたえたら「あるでしょ」「○○さんとおなじです」「同じじゃ駄目。新しいのを出しなさい」と。

黒板一面に私の悪口を書くクラスメイト。先生はずっとそれを紙に書いてました。その紙は後日私の母の元へ届けられました。

それでも母は私が苛められてると思わなかった。何でこんなものをわたすのかがわからなかった、と後日言ってました。

その手紙はずっと引っ越すまで捨てられることはありませんでした。



当時は珍しいアレルギー体質なので「これは食べられません」というと「そんなことばっかり言ってるから駄目なの。食べれば治る、食べなさい」


そんな先生の下だったので、クラスメイトはほうきで叩く、座る間際に椅子を引く、トイレに閉じ込めるなど日常です。

両親に言っても半分も理解しようとしませんでした。

「戦え」「泣くのが悪い」結論はいつもこれだけでした。


私自身両親に優しく大切にされた記憶がありません。

愛されたことがないので、愛することが苦手です。