菅野直基氏の投稿よりシェア。。。

「赦すことでいやされる」

「人を赦さない心」は、自分を苦しめます。しかし、「赦す」ことで自由になります。

「赦し」とは、ただ一回の事ではなく、現在進行形であり、終わりのないプロセスです。ですから、何度も途中で赦せなくなって裁きたくなることが起こり得ます。

ある男性が、休暇を取ってハワイに旅行しました。朝早く、きれいな道をジョギングしていますと、道端にビールの空き缶が何本か捨ててありました。その瞬間、怒りが込み上げて来ました。「こんなに美しい場所に空き缶を捨てるとは何事だ!何て無神経な奴だろう。」と考えているうちにますます怒りが込み上げて来ました。

怒りながら、空き缶の脇を通り過ぎて、ホテルに戻ろうとする頃には、心は怒りで一杯でした。

そんな時、心の中で「待ちなさい。空き缶を捨てた人の非を裁くよりも、戻って拾ったらどう?」という内なる声が聞こえたそうです。

空き缶ごときで一日中人を裁きながらムカムカ過ごすよりも、自分でできる解決をしたらよいのではないかということです。

自問自答しました。空き缶を拾いに戻れば数分かかり、友人との待ち合わせの時間に遅れてしまうかも知れない。そこまでして空き缶を片付ける価値があるだろうか? 

しかし、その場所に戻って空き缶を拾いました。その瞬間、心の中のムカムカが消えて、安らぎと喜びに満たされました。

ホテルへの帰り道、若い頃の記憶がドッとよみがえって来て、昔、車の窓からごみをポイ捨てしたこと等を思い出し、自分自身もその空き缶を捨てた人と同じように、無神経なことを行なったことに気付きました。

空き缶を捨てた人を裁いていた心の一部は、自分自身への罪責感の投影であったのです。

空き缶を拾ってゴミ箱に捨てる行為は、天国のように美しい島を大切にする以上に、自分を過去から解き放ち、自分を裁く気持から自由になることを学んだと言えます。

人を裁いてイライラしている時間があったら、戻って空き缶を拾って捨てることで、自分自身が過去の行動について引きずっている感情から自由になれるのです。

「赦し」とは、「赦せない相手」の謝罪を受け入れることで、「赦す気」がなくても、建前上「わかりました」「赦しましょう」と言うものであると考える人は多いと思います。

また、「赦さない」とは、自分を傷つけた相手から自分を守るために、恨み続け、憎み続けるという場合も多くあるでしょう。

「赦し」とは、「赦さない」という地獄の苦しみから自分を救い出し、自由にすることです。

「赦さない」と、憎しみや恐れ、怒りの感情によって、体は極度の緊張状態になり、血液循環を悪くし、免疫力が下がり、心臓や脳やあらゆる器官にストレスを与えます。お酒や一時の快楽などのストレス解消に身を委ねて、「赦さない心」や「裁く心」から来る苦痛を和らげようとする人がいますが、悪循環であり、健康上においても、精神的にもますます深刻な問題になって行きます。

今日私たちが、赦しを決断するならば、自らに「いやし」をもたらせることがでます。お酒等も必要なくなりますし、体を健康に向かわせます。実際、人を「赦さない心」が癌の原因になっているというデータもあるそうです。

「赦す」ことでいやされます。「赦し」を決断し、「赦し」に向かいませんか? これが自分自身を「いやし」、幸せにします。