思い出話のつづき | LIMオフィシャルブログ「LOVE IS MUSIC」Powered by Ameba

思い出話のつづき

昨日はハンメ(母方の祖母)の思い出話をしましたが、今日はハルモニ(父方の祖母)の思い出話を。

ちなみに二人ともすでに亡くなってます。






韓国人なので法事の時は親戚が集まって一大セレモニーになるんです。

自宅で行うんですが、数々の料理をお供えし、一通り終わればみんなで食事となるわけですが

みんなが集まるとハルモニはいつもより元気になってたように思います。


法事って年に一回や二回かと思いきや、うちは年に10回はありました。

先祖を大切にしてるってことなんですけど、料理を用意するうちのオカンや嫁連中にとっては

なかば地獄だったかなと思われます(苦笑)

今でこそ年に10回以上もの法事をすることはなくなりました。

ハルモニが亡くなってから変化した大きなことです。


ゴッドばぁちゃんと影であだ名がついてたハルモニは、うちの一族のTOP of TOPでしたから。

誰もはむかいません・・・少なくともうちのオトンはじめ息子連中は。

がしかし、たまぁ~に誰もはむかわないハルモニに対して立ち向かう女が・・・それはうちのオカン。

何度か大喧嘩してるのを見たことがあります(苦笑)

本当に小さい頃は、それを見て泣いてました・・・ははは。

今思い返せば大いに笑えますけどね。


嫁姑の戦いとはよく言いますが、戦いではないにしても

嫁と姑という関係だからこそ起こりえる問題が多々あったのは子供ながらにすべて認識してました。

誰があ~言ってたからこうなってしまってこの人が怒ってて、そのとばっちりが回ってきてる・・・とか

いろんなことを子供だったのに理解してたので、いい意味では大人びた感覚があったかもですが

悪く言えばバランスを崩しそうな子供だったのではとも思います。

だって大人の争いがまるでいつでもテレビが見れるかのごとく、いつも目の前に露呈してたわけですから。


思い出話をするつもりが何だか脱線してるな・・・。


ハルモニは強かった、いろんな意味でね。

韓国から日本に来て、子供たちを食わせていくために始めた焼肉屋。

日本人が捨ててた牛の内臓を焼肉に使い、ホルモン焼きを広め

7人もの子供を育てあげた立派な女性。

苦労して苦労して働き、足が若干不自由に・・・働き過ぎ・・・でも明るくチャーミング。

そう、ホンマにチャーミングな人でした。


法事や正月など人がたくさん集まった時など、韓国の民族楽器・チャングを叩いて盛り上がったり。

そのハルモニの形見となるチャングは僕の手元にあります。

ハルモニの家でずっと眠ってたものを去年拝借し、修理に出して復活させたんです。

そのチャングを使用して、今回のCDの収録曲の『アリラン~鳥の唄』をつくりました。

楽器の演奏は僕ではありませんが、ハルモニの形見を使って歌いたかったので喜んでくれてると思います。


住んでた家がすぐ近くだったこともあり、しょっちゅう顔を見にいったり、用事を頼まれたりでした。

玄関を入るとブザー音が鳴るんです。

そうすると部屋から『ヌグや?』とハルモニの声。

ヌグとは韓国語で誰という意味です。


夕方に行くとハルモニは一人でご飯を食べてることが多く

決まって『お腹空いてへん?一緒に食べよな』と。

お腹がいっぱいであろうと、家でオカンがご飯の用意をしてようと、よほどのことがない限りは

その言葉を受けて一緒に少しでも食べてました。

そうすることが子供ながらに当然と思ってましたし、一人でご飯を食べるなんてさみしいよなと理解してたので。

家に帰って、『ハルモニんとこでちょっとご飯食べてきたぁ』って言うと

『はいはい』で済んだり『作ってあんのに!』って言われたり・・・。

でも『一人で食べたはったしかわいそうやんかぁ』って言うと『そうやんなぁ』で終わったり。

うちのオカンもハルモニのさみしさは理解してたしね。


お墓参りは毎週日曜日の行事で、みんなで東福寺に行ってました。

毎週毎週の恒例行事で、僕のお墓参り好きはこういうことによって培われたのでしょう・・・か。

ハルモニが身内を率いて繰り出すお墓参りは圧巻でした。


僕のプロレス好きはハルモニ譲りです。

ハルモニはプロレスLOVEでテレビを見ながら大盛り上がりでした。

自分でビデオ録画してまで観てましたもん、凄いおばあちゃんです。

このハルモニ譲りの趣味を受け継いでるのは、親族の中できっと僕だけです。

そんな自分が誇らしい(笑)


僕が上京して間もなくテレビに毎週出演してた時があり、その頃ハルモニは入院してました。

病院ではテレビに出てる僕を看護婦さんたちに自慢してくれてたり、凄く喜んでくれてたようです。

毎週毎週僕はお見舞いのために帰省してました。

そんな時期がしばらくつづき、テレビの仕事が終わった頃ハルモニは亡くなりました。

その連絡を受けた時、僕はモデルの仕事で撮影でした。

毎週テレビに出演してたその当時、これが終わったら望んでないことが起こるような気がしてました。

ハルモニは僕の雄姿を見届けてからお空に向かったんですね・・・。

もうはるか昔のように感じます。


僕が京都にいる頃、実家近くではあるものの(つまりハルモニの家にも近いところに)一人暮らしをしました。

その報告をハルモニにした時、予期せぬリアクションで・・・ハルモニは涙を流してました。

『親の元を離れることないのに・・・さみしいやん・・・さみしいやん・・・』と。

親に甘えろという意味ではなく、一緒にいれるうちは一緒に過ごしたほうがいいという意味で。

その涙が忘れられません。






ハルモニもハンメも僕を愛してくれました。

僕も愛しました。

それは今でも変わることなくです。

僕のルーツは彼女たちです。

愛すべき二人のばあちゃんのおかげで僕は存在しています。

ありがとう!!!






☆LOVE☆LIM☆PEACE☆