きのう少し触れましたが、いわゆるタイトル=「山上の垂訓」のなかの

最初の言葉(こころの貧しい人)が誤訳であるというのです

(専門家より)。

一部ダブりますが、勘弁してください。

もちろん、ボーイには参考になりましたが、なにせ最も知られた聖書の

歴史的な翻訳ですから、フクザツな心境なのです。



マタイ(5章3節)


心の貧しい人々は、幸いである。

天の国はその人たちのものである。




「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、
ほとんど誤訳と言わざるをえません。

「心が貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、
ここではそういう意味ではないからです。

直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」という意味に受け取るのが
よいと考えられます。

マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、

物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、

飢え渇いている人間の姿を示そうとしているのです。

なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」と訳し、

新共同訳ができる前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。

どちらもかなり大胆な意訳ですが、参考になります。 



上記は、「福音のヒント」より無断で引用させて頂きました。 


きょうは、1954年の訳でどうぞ↓。



こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。