ことばはいつも難しい、と感じている。
とくに日本語においてであるが、いまはそれは脇に
置いておきたい。
時間がないから短く書く。
中学から学校を出て社会に出て働くようになってから
英語を勉強してきた。
細々とではあるが断続的にベンキョーしてきた。
わからないことがある。
それは単語でも述語でもなく、言葉の本質的な事柄である。
縦のものを横に、横のものを縦にという作業のことだ。
翻訳とか通訳などがその最たるもので、専門的な勉強と
経験を踏まえた上で商売にもなる。
よって誰にでもなれる訳でもないし、競争も激しいと
想像される。
いつも疑問に思っていることは、縦ー横の関係だけ、
つまりー意味が通じればほんとうにそれでよいのか、
或いはそれでよしとするのか?ということだ。
A言語からB言語へ、そのまた逆にという作業が完了して
それだけでモンダイは終わりなのかどうか?
表面的にはそれでイイのかもしれない。
さは言え、ひとつの言葉には、歴史的・社会的・文化的(他)
な背景がある。
例えばー正月は終わったが、日本の「正月」、中韓のそれ、
は同じ黄色民族でもその祝い方は全く異なる。
他の国、言語でもそうだろう。
あけましておめでとうございますが、表面的には`A HAPPY NEW YEAR`
で正解だろうが、わが国では独特の正月の祝い方があって、
白人らの「NEW YEAR」とは文化風習は全く異なる。
若い頃読んだミルワード教授の英語に関する本で、LAKEという
響きは、「深くて青い透明な」湖を連想するという。
これはネイティヴ以外ではわからないことだ。
そこいらにある単に大きく広い水の集まった所は「湖」とは言えぬ
らしい。
そんなことで、長い間、翻訳とか通訳とかに対して潜在的な
違和感を覚えてきた。
表層的な意味はわかっても、A⇔B間の真の理解・意味などを
正鵠に伝えられないのではないのか



(伝えるには膨大な説明や注釈が必要だが、実際面で不可能だ)
いつも割り切れない思いでいる

。。
とくに日本語においてであるが、いまはそれは脇に
置いておきたい。
時間がないから短く書く。
中学から学校を出て社会に出て働くようになってから
英語を勉強してきた。
細々とではあるが断続的にベンキョーしてきた。
わからないことがある。
それは単語でも述語でもなく、言葉の本質的な事柄である。
縦のものを横に、横のものを縦にという作業のことだ。
翻訳とか通訳などがその最たるもので、専門的な勉強と
経験を踏まえた上で商売にもなる。
よって誰にでもなれる訳でもないし、競争も激しいと
想像される。
いつも疑問に思っていることは、縦ー横の関係だけ、
つまりー意味が通じればほんとうにそれでよいのか、
或いはそれでよしとするのか?ということだ。
A言語からB言語へ、そのまた逆にという作業が完了して
それだけでモンダイは終わりなのかどうか?
表面的にはそれでイイのかもしれない。
さは言え、ひとつの言葉には、歴史的・社会的・文化的(他)
な背景がある。
例えばー正月は終わったが、日本の「正月」、中韓のそれ、
は同じ黄色民族でもその祝い方は全く異なる。
他の国、言語でもそうだろう。
あけましておめでとうございますが、表面的には`A HAPPY NEW YEAR`
で正解だろうが、わが国では独特の正月の祝い方があって、
白人らの「NEW YEAR」とは文化風習は全く異なる。
若い頃読んだミルワード教授の英語に関する本で、LAKEという
響きは、「深くて青い透明な」湖を連想するという。
これはネイティヴ以外ではわからないことだ。
そこいらにある単に大きく広い水の集まった所は「湖」とは言えぬ
らしい。
そんなことで、長い間、翻訳とか通訳とかに対して潜在的な
違和感を覚えてきた。
表層的な意味はわかっても、A⇔B間の真の理解・意味などを
正鵠に伝えられないのではないのか
(伝えるには膨大な説明や注釈が必要だが、実際面で不可能だ)
いつも割り切れない思いでいる