今週、二回にわけて「沈黙」と。。といふ題で遠藤周作の
タイトル本のことを記した。

沈黙が圧倒的な感銘をおいらに与えたので、やや期待して読み
進んだが、正直云ってガックリだった。


非力なイエス、無力なイエスの呈示。。

これじゃあ聖書に反するんじゃあないの?
(但し、聖書の言が是として)

あなたは旧教徒でしょ?

そんな信仰でほんとうにいいんですかい??

もとより文学作品であるからして作者の想像力から生まれて
きたやも知れぬ。

揺れ動き苦悩する作者の分身である「私」の心理的精神的な葛藤。

ナチの収容所で身代わりになった神父のこと(K神父のモデルだろう)、
学生寮に居た
独人(ユダヤ人)で「ネズミ」と云われたチビの修道士=いつも
おどどしているちっちゃなおちんちんの持ち主。
かれが矢張収容所で死へと至る模様の聞き書き。。


どれも重苦しい雰囲気にある。

この小説にはキリストの十字架上の死は描かれるが、肝心の
それによる人類の救いとなった筈の復活が省かれている。

片手落ちではないのか?

どうも解せないのである。

遠藤の友人である井上洋治神父は解説でこの「小説」を褒め
ちぎっているが、ほんとうにさふか(↓)?

「父なる神」の西欧・キリスト教”に対して、
“罪人をも駄目人間をもひとしくその膝に抱上げる”
“母性的・キリスト教”“の復権


時間の関係でこれ以上書けぬが、おいらは世評とは反対に
この「死海のほとり」は大いなる失敗作だと思わざるを得ない。

遠藤周作の代表作は「沈黙」の一冊で足りるーそこには
強い感動があったーと信じるが、「死海」は「沈黙」の
足許にも及ばないのである。

感動がないことへの幻滅なのだ。



帯:信仰につまずき、キリストを棄てようとした男――
彼は真実のイエスを求め、死海のほとりにその足跡を追う。
愛と信仰の原点を探る。

「母」なるものから「同伴者イエス」にいたるためには、
氏にとってイエスの生涯をつらぬく<愛>の発見がなお必要であった。
そしてこの<愛>の発見の過程こそが、まさに遠藤氏自身の分身とも
言える「死海のほとり」の主人公<私>のイスラエル巡礼の旅に
他ならないのである。(井上洋治)