(一昨日の大司教の説教の続きです)
原主水は現在の千葉県佐倉市にあった臼井城で生まれ、
1623年12月4日、江戸の札の辻で殉教した人です。
火焙りの刑に処せられるときに、原主水はこのように
自分の信仰を宣言しました。
私は、この彼の言葉はどういう意味だろうかとずっと
考えてきました。
そして今は、多分こういうことだろうと考えています。
自分はキリスト教こそ自分を救ってくれる真理の教えである
と信じ、この真理を証しするためにはいかなる苦難にも耐え、
どんな責め苦にも屈しないで生きてきた。
この指を切られた手、腱を切られた足がその証拠である。
今自分はイエス・キリストのために命を捨てる。
キリストはわたいの贖い主、救い主であり、わたしに
永遠の命をもたらしてくださる。
「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」
(ヨハネ12・26)
原主水はこのイエスの言葉に信頼し、イエスのもとへ、
父の家へと旅立つことを固く信じていました。
このような原主水の姿と言葉には非常に強い臨場感、
存在感、鮮やかな輪郭があります。
400年後の現在、宗教への迫害はありません。
しかし今、人間の自由、創意、自発性というものは
何か見えない力によって大いに統制され圧迫されている
のではないでしょうか。
人間の存在の乏しさ、薄さを痛切に感じます。
400年前の人の方がはるかに強い存在感があるのです。
(2008年11月3日 原主水列福記念 千葉地区の集い)
原主水は現在の千葉県佐倉市にあった臼井城で生まれ、
1623年12月4日、江戸の札の辻で殉教した人です。
火焙りの刑に処せられるときに、原主水はこのように
自分の信仰を宣言しました。
私は、この彼の言葉はどういう意味だろうかとずっと
考えてきました。
そして今は、多分こういうことだろうと考えています。
自分はキリスト教こそ自分を救ってくれる真理の教えである
と信じ、この真理を証しするためにはいかなる苦難にも耐え、
どんな責め苦にも屈しないで生きてきた。
この指を切られた手、腱を切られた足がその証拠である。
今自分はイエス・キリストのために命を捨てる。
キリストはわたいの贖い主、救い主であり、わたしに
永遠の命をもたらしてくださる。
「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」
(ヨハネ12・26)
原主水はこのイエスの言葉に信頼し、イエスのもとへ、
父の家へと旅立つことを固く信じていました。
このような原主水の姿と言葉には非常に強い臨場感、
存在感、鮮やかな輪郭があります。
400年後の現在、宗教への迫害はありません。
しかし今、人間の自由、創意、自発性というものは
何か見えない力によって大いに統制され圧迫されている
のではないでしょうか。
人間の存在の乏しさ、薄さを痛切に感じます。
400年前の人の方がはるかに強い存在感があるのです。
(2008年11月3日 原主水列福記念 千葉地区の集い)