8・15付:(続)イザヤ・ベンダサンと野村良雄。。でこう引用した。


ベンダサン氏の考え方はすばらしくユダヤ的であるが、
同時に禅を深く「理解」しているところに独自性がある。

私は、このような書物(「日本人とユダヤ人」)の出現こそ、歴史の
現時点における日本人とユダヤ教およびキリスト教との本格的出会い
対決の証拠だと考えるのである。

私はベンダサン氏の宗教とその著書に多大の敬意を払うものであるが、
氏が明らかにしたそのような宗教相互の出会いと一致、協力こそ世界史の
とくにその現時点における主要問題があると考える者である。

音楽こそ、恐らくもっとも非現実的で、純粋に関係的な世界である。
しかもそれは、数学のように論理的に数えられ、思考されるよりは、
直接的に感得され、「無心」に「意識」されるのであろう、

(中略}

じつにモーツァルト
見られるような純粋に音楽的な世界と同質なのではなかろうか。



モーの音楽を言葉に置き換えて説明しようとする試みは、かなり前から
文学哲学科学者よりなされてきた。
白水社よりも多くの書物が出されたが核心を突くものはないようだ。
百万言の言葉を費やしてもだ!

71年に講義を受けたとき、モーの世界はのそれでは?と野村教授は
指摘された。それは意表をつく言だったが、また一方で首肯もできたのである。
ボーイは当然禅には無縁の者だが、なんとなくわかるような気がした。

モーの世界は融通無碍といわれておられたかと記憶する。

ベンダサンに触発された教授はBの書物ににおなじような禅の世界を
見られたに違いない。

ベンダサンはユダヤ人となっているが、あとから訳者自身であることが
外部より明らかにされた(以前書いたとおり)。

教授自身は著書から熱心な旧教徒であることがわかっている。
だから上に引用した発言につながる。
山本七平はブルマン出身で新教徒と思われるが、おなじ基督教である
がユダヤ人とも付き合いがありそのフリをして、あとで脇を突つかれた。


ボーイがベンダサンにこだわるのは、野村教授の講義によるものである。
当時二十歳だった。。