8・17の続きですが、タイトルはすこし変えました。

お断りしておきますが、ここでは宗教及びその内容に触れないように
していますが、ボーイの気持ちは↓のこともさりながら、別のところに
あります。ハナシのいきがかりとおもい敢えて挙げるものです。
(コメントは引用の下に書きます)

これは、東京教区大司教が本年7月19日にK教会での堅信式説教(ミサ中)で
話されたものの一部です。(WEBより)


その(聖職者は裁判員を辞退すべき)理由。
今日の主日の説教を考えながら、これが理由になるのではないかと考えます。

わたしたち牧者の務めは何であるか。
人を助ける、弱い人を強める、傷ついたものを包む、病めるものをいやす、
そして神様のいつくしみを説く。

もちろん、神の裁きを伝えますが、神の正義と神の慈愛、この二つのことが
ありますが、神様が最終的に正しい裁きを行いますので、わたしたちは神の
ゆるし、神の慈しみを伝え、そして、イエス・キリストがわたしたちの罪の
あがないのために十字架にかかってくださったことを告げ知らせる。
それがわたしたちの一番大切な任務であります。

そして、司祭は、許しの秘跡をはじめ、人々の心の奥深くにあることを
聞き、その内容を話すことができない、守秘義務というものがあります。
司祭の任務、特にその守秘義務のために、裁判員になるということはふさわしく
ないのではないか。そのように考えております。

国家が裁判を行うことについて、教会は何も反対しない。
しかし、わたしたち宗教家の任務は、裁きではなく許しを伝えることでは
ないかと、そのように思います。

良い牧者でなければならないわたしたち、裁いてはならないと言われた
イエス・キリストの教えに従い、すべての人が神の救いに与れますように、
忍耐し努力し、そして、自分自身、広い深い心をもってすべての人を
受け入れられるようにつとめる、それが司祭のつとめではないかと
考えております。

うまく説明できませんが、そのような気持ちで牧者の任務を務めていきたい
と考えております。


ボーイはこれを読んでとても感動したのである。

日本旧教を代表する方が、高見からではなく一般信徒とおなじ処まで
降りて行き(精神面でのこと)、平易な分かり易い言葉で語り掛ける、
その姿勢に驚きと同時に胸を打たれたのだ。

難しい言葉はひとつも使われておらず、すんなりと内容が頭に入る。
おまけに二千年に就任されてから、教区内で行われた説教がすべてWEB
に収録されている。
この開かれた教会の方向性に賛意と敬意、共感を表したい。
以前(ボーイの十代)には考えられないことであった。

今回の主題はたまたま讀賣朝刊で記事を見たのがきっかけになっている。
さもなくば、四十年もご無沙汰してきたこの教えに接することは
なかったろう。
母がしむけてくれたのかも知れない。
そうおもっている。。