吉川氏は)詩文を高しとし俗文学をいやしむ考え方をその「大胆な言葉さえある」
(仁斎の書に対し)という表現にあらわしている。その文学のさすものが詩文のみであるとき、
それは正しいとはいえない。「仁斎徂徠に影響されるところが多い」とあるが、いずれも古学派
であり、吉川氏の「儒学」は,従って古学派的なそれだろう。とすれば、儒学が「文学」の教養
を必須なものとしたしるしとして、「五経」の中に「詩経」のふくまれていることをあげたとき、
吉川氏のその「文学」には、詩文と俗文学という区別はなかったと見るべきかもしれない。
「詩経」には民間の歌謡も集められているから。しかしその考えは明らかにされてはいない。

仁斎が「野史稗説を見ても、皆な至理あり、詞曲雑劇も、また妙道に通ぜん」といったと
いうことから、私は明の李卓吾(1527-1602)を思いおこす。彼は、童心(純真な生得の心)
さえ存するならばどんな形式のものをつくろうとすべて文学であり、それがときには伝奇、院本、雑劇、
「水滸伝」となるのであって、それらはみな「天下の至文」であるといい、当時士太夫階級からさげす
まれていた小説・戯曲を、詩文と同じ高さにおいた人だった。
(駒田信二「中国の名著」について 『遠景と近景』より)