だいぶ前に、だれかの文章を読んでいたら、こんな表現に出遭った。

「壺中の天(地)」

意味は文脈からすぐ了解した。
たまに電車の中などで想い出して、あれの本来の意味とか出処はどんなんだろうか、
とながい間、気になっていた。

そこで、日曜日に検索で調べてみた。


後漢の費長房が、市中で薬を売る老翁が売り終わると、店頭に懸けた壺中に入るのを楼上から見た。
長房は老人に頼んで壺中に入ったところ、宮殿楼閣をなし、山海の珍味が満ちていたという
「後漢書(方術伝)」の故事から
俗界と切り離された別天地。酒を飲んで俗世間を忘れる楽しみ。別世界。仙境。壺中の天。
(大辞林) 


《後漢の費長房が、市中に薬を売る老人が売り終わると壺の中に入るのを見て一緒に入れてもらった
ところ、りっぱな建物があり、美酒・佳肴(かこう)が並んでいたので、ともに飲んで出てきたという、
「後漢書」方術伝の故事から》
俗世間を離れた別世界。また、酒を飲んで俗世間を忘れる楽しみ。仙境。壺中の天。
(大辞泉)


時は後漢、費長房という男が街中で、ある薬売りの老人に出会う。
その老人は、店をしまうと店頭に掛けてあった壺の中にすうっと
入ってしまった。この不思議な光景を見た男は老人に頼み、自分
も壺の中に入ってみることにした。するとそこは俗界を離れた、
まさに仙境であった。男は暫し俗世を忘れ、共に酒を飲んで壺の
外へと出てきた。
「壺中の天」今日これは別天地、別世界を意味する言葉となって
おります。
(あるお菓子やさんのサイトより)


つまり、いまふうの言葉だと、ユートピア 桃源郷(古いか?)てなところかな。

なるほど。納得。長年の疑問がイッキョに氷解した。

駒田信二の本を検索していたら、同じ名の本があるのを知った。
さっそく予約入れて読んだが、あとがきに明の王哲の言葉「斉山に遊ぶ記」を引いている。
(ここでは漢字がないので引用できず)
著者は、上の意味とは関わりなく、「きわめて俗っぽいたとえ」として使用したといい、
「極めて狭く小さいことのたとえ」としても用いられる、と。
これはすぐ了解できるに違いない。
なぜなら、壺の中から外を見ようとすれば、そうならざるを得ないからだ。
「極めて狭小な意見ではあるが...というような気持ちからこの題を選んだ」。

駒田の謙虚さ(勿論、フリだろうが)を尊しとしたい。