駒田信二「遠景と近景」(83年刊)で、吉川幸次郎の翻訳批判(おもに水滸伝)を折角
書いても、吉川の生存中は、新聞社雑誌社でボツにされたと記している。
吉川幸次郎は神様だった。
1961年に新聞社から返された原稿を「書けなかったこと」に転載している。
(吉川は80年に死亡)

竹内が吉川の訳本「四十自述」の誤訳を指摘したのに対して、吉川は、それは誤訳では
なくて日本語を知らなかった結果だという意味の反論をした。(5・20付で載せた↓)


私が「四十自述」から誤訳を指摘したのにたいして、吉川氏は、それは原語を誤解した
のだ、と主張した。私は唖然となって、それっきり口を開くのをやめた。日本語でものを
考えない人、日本語でものを考えぬことを得意がる人、それは私にとって別の世界に住む
人である。私は吉川氏のなかに根強い「漢学」の伝統を認めた。
訳者の言語感覚は、私から見れば、異常であり、不潔でさえある。(1947年)
(竹内が最初に批判したのは、1941年)


吉川の本意は、おれが翻訳の誤訳なんかするものか、おまえはおれの日本語の表現の
ちょっとばかりまずかったところを突いて、揚げ足を取っているだけだ、という自負であろう。

吉川は鼻っぱしの強い男である。
「水滸その他につきましては、どの一つについても私の訳が現在のところ、
他のどの人の訳よりも、原文に対して最も正確であることを、私は信じて
はばかりません」

大変な自信だが、彼の小説の翻訳は決して、自らも言い、世間でも誤解しているほどの
すぐれたものではない。水滸伝を例にとってみれば、中国の官名を鎌倉時代から現代にいたる
雑多な官職名に置きかえて気にもせぬ無頓着ぶりだし、また例えば「一樽いくらだね」
新円の五貫です」というように、「現金で」と訳すべきところを、翻訳当時のアブク
のような日本語に置きかえて得々としたり、「いざ鎌倉というときには」などという訳文を
使って平然たる無神経さである。

彼は儒者を以て任じている。詩文のみを尊しとし、小説をさげすむ古い漢学者流の考えが強い。
このことは、徳川夢声との対談の際、かの夢声老人をして便所の中で何度も悔し涙を流させた
ということとも通じる。「なにを芸人風情が」というさげすみが彼の心の一隅にはあるのだ。
しかし彼も芸人でないとはいえない。ちなみに、この対談で彼は、自分は中国語でものを考える
ということを誇らしげに語っている。(略)