些細な誤訳を云うより、もっと大きな問題が根底にあると思う。

この点(「一種声音」を「何か物音」という訳:吉川の手紙から引用)を除けば
吉川氏は明らかに直訳派なのだから。。(中略) もっとも、この場合、僕は直訳派より
意訳派を尊ぶ意味でこの区別を立てている。

僕が吉川氏の訳文を低俗と感じたのは、まぎれもない本当のことである。しかし、その説明は
相当骨の折れる仕事である。僕はゆるんだ文章が一番きらいである。つまり、いやらしい
文章がきらいである。「四十自適」だけは、とくに第一章は、目をおおいたくなった。

吉川氏が、自己の翻訳の態度について、支那語をなるべくそのまま日本語に移すこと、
そのためには日本語としての調和が失われても仕方がないという意味のことを述べて
いるのは、頗る重要な言葉である。これは、松枝の持論とも一致している。
いったい、こうしたことができるかどうかを僕は疑っている。
そんなに手軽に、文章というものが書けるものかどうか、これが第一。

第二に、支那語を支那語として、支那人のように理解することが出来るかどうか、僕には疑問である。
(中略)また、理解を先にして、あとから表現を考えるような余裕があるものかどうか。
僕の場合で云えば、むしろ言葉を模索することが理解へ斬込むことになるのだ。


内に、発するものがなくて、たとえ翻訳にしろ、文章が書けるとは思えない。
はじめに表現の意欲があってその手段として翻訳が可能になるのである。

どんないやな仕事でも、やっている中には息がはずんでくる。
文学とは、そうしたものだと信じている。ぼくにとって、言葉は,在るものなのだ。 これは、いつでも
そうなのだが、態度として云いきるために云うのである。


(修養・語学力の不足で)僕がそうしたことを云うと考える人は、文章の上では僕にとって他人である。
(つづく)