(「死を恐れずに生きる」 駒田信二 95年5月 講談社 のつづきです。)

中国には昔も今も厳然たる身分の差が存在しています。

私は、中国には人民というものはいまだかつて存在しなかったと思っています。
権力者にとって人民は眼中にないわけです。

学問にしても、あくまで統治階級のための学問です。古来、中国の哲学者、思想家の
なかでも、いわゆる庶民や人民も考慮にいれて説いたのは、墨子だけでしょう。
墨子は平等愛、非戦を唱えています。こうした学問の形態はめんめんと続いていて、
いまだ政治をになう階級のための学問でしかないのです。(P.92)

学校は勉強をするところだけではなく、人を知り、人というものを学ぶ場です。
人のあらさがしをするのではなく、いいところも悪いところもひっくるめて、
その人を見ようじゃないか、という増田さん(主任)の姿勢には目が覚めるような
思いがします。

教育者も指導者だとするなら、人の上に立つリーダーはこういう見方をしなければ
なりません。ひとはたいがい欠点や嫌なところばかりを見ようとしますが、人間は
全体を見なければその人の本質は見えません。

すぐれた人材を見逃してしまうでしょう。
何よりも人を好きになること、そしてまるごと信じてみることが大切なのではないでしょうか。
難しいけれどその方がはるかに楽しく生きられそうな気がします。(P.108-109