学者仲間でも学問への取り組み方が異なる人はたくさんいる。
中国文学をやっている友達には、儒学者タイプもいれば、文学者タイプもいる。
私はかれらをまるごと友だちとして受け入れる ー これは中国の思想につながります。
その底流にある易の陰陽の対立に通じる。陰を醜、陽を美とすれば、孔子らの儒家は
美、老子荘子らの道家は醜をとる。この陰陽によって万物が生じるという思想。
これが日本に入ると,例えば「武士道は死ぬことと見つけたり」とたんに死を取る。
本来の陰陽の対立からいうと、生のなかには生と死が内包され、死の中にも
生と死が内包されている。場合によっては、生も死も受け入れるという考え方も
しなければならない。
悪の中にも善があり、善の中にも悪がある。賛成意見、反対意見、これまた然り。
渾然の中に真実を追究する力、それがより豊かな生を送る源になるのではないだろうか?
(「死を恐れずに生きる」 駒田信二へのインタヴュー本 95年5月 講談社)
多少文の調子をかえてあります。
中国文学をやっている友達には、儒学者タイプもいれば、文学者タイプもいる。
私はかれらをまるごと友だちとして受け入れる ー これは中国の思想につながります。
その底流にある易の陰陽の対立に通じる。陰を醜、陽を美とすれば、孔子らの儒家は
美、老子荘子らの道家は醜をとる。この陰陽によって万物が生じるという思想。
これが日本に入ると,例えば「武士道は死ぬことと見つけたり」とたんに死を取る。
本来の陰陽の対立からいうと、生のなかには生と死が内包され、死の中にも
生と死が内包されている。場合によっては、生も死も受け入れるという考え方も
しなければならない。
悪の中にも善があり、善の中にも悪がある。賛成意見、反対意見、これまた然り。
渾然の中に真実を追究する力、それがより豊かな生を送る源になるのではないだろうか?
(「死を恐れずに生きる」 駒田信二へのインタヴュー本 95年5月 講談社)
多少文の調子をかえてあります。