雑誌『図書』に、青柳いづみこ とかわった名前のピアニストが毎月読書コラム

を書かれており愛読している。文筆業のほうも大したもので賞を数度受賞されている。

不覚にもごく最近までその名もしらなかった。

彼女の本の感想はいずれ書くつもりだ。


11月号は標題で、奥泉光「鳥類学者のファンタジア」(集英社‘01)を取りあげている。

クラシックのピアニストはアルゲリッチや自分(青柳)も含め、‘譜面をその通り弾くように

訓練を受けけてきたの‘で、インプロヴァイズできないという。


ここで述べたいのはそのことではない。 すこし引用させていただく。

主人公霧子はいう。 音楽はべつに人をたのしませる

ためにあるわけじゃないわ、じゃ何のためにあるのかときかれ、真理に奉仕するためよ、

と答える。霧子の主張は、価値あるものを真善美に分けると、音楽は真に属しており、

真理であるがゆえに美しくもあるが、決してその逆ではない、という。


青柳の感想は、「なるほどそれでクラシックのコンサート会場では、「真」であろうとして

美しくも楽しくもない音楽が蔓延しているのか」、というものだ。

してやったり、おもわず拍手をしたくなるような本質をついている言葉ではないか!


音楽だけではない。聴衆のなかにも、じつにいやあらしい知ったかぶりで評論家気取りの

スノッブどもが結構いる。席に座っていると否応なくそこここから聞こえてくる言葉ども...

耳を覆いたくなる。


戦前戦後(すぐ)は音楽会といえば、上流階級の行くものだったようだが、その名残りが

コンサートに行き始めた40年ほど前にはかなり色濃く残っていたものだ。中年親父の

べたべたのポマードで固めたオールバックの髪型、髭、冬の分厚い灰色のコートに

包んだ恰幅のよい身体、ご婦人方の派手で高価な衣服や鞄、靴。。ざあます言葉。


尤もいまでも音楽大学に進めるような学生の親たちは、わりかしゆとりのある家庭が多い

のも事実なのだが。


これだけクラシック音楽が普及しよい意味で大衆化してきたにもかかわらず、

いまでも僅かだがそのような輩をみかけるのは事実だ。(最近あんまり行ってないけどね)

そういうところを本能的に嗅ぎ付け、ク音楽を敬遠するひとたちもかなりいるかもしれない。

はやく普段着に毛の生えた程度の服装で行けるようなコンサートになって欲しいもんだ。

気軽に行って聴こうよ!