蜷川幸雄さんが逝ってしまいました。

訃報を知って、
『え、うそでしょ。』
囁くように呟いてからしばらくの沈黙。
決して突然のことではない、
覚悟みたいなものはあったけれど、
いざ信じられませんでした。
信じたくありませんでした。

ひとはこんなにも言葉にならない感覚が襲ってくるのだということを初めて知りました。

もう一度お会いしたかった、
会えるものだと思っておりました、
もう一度。
『また来たのか、うるさいな!』
などと言われても、
もっともっと稽古場へ見学に行けばよかった。

わたしが初めて蜷川さんとお会いしたのは短大の入学式でした。
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蜷川さんが学長として就任されたちょうどその年の入学生だったのです。
わたしは蜷川さんに会って蜷川さんの講義を受けるために桐朋を選んだ、
と言っても過言ではありません。
『演出論』という名の蜷川さんの講義は時間割が一限目で朝8時半頃からスタートするものだったけれど、
他種目他専攻の何名かの教授も学生達と肩を並べて講義を受けていた。
濱っ子のわたしは6時頃に家を出なければ間に合わないため毎週必死の思いだったけれど、
一度だけ数分の遅刻をしてしまった事があり地下にある教室(小劇場)の冷たい扉をそーっと開けたその瞬間
『出てけ!』
と蜷川さんに怒鳴られた時のこと、
じぶんと同じ状態に出くわしている状況を今でも鮮明に覚えています。
鮮明に覚えていることは沢山あって、
と言うか今となっては蜷川さんとの思い出すべての記憶が鮮明に残っているけれど。

桐朋を卒業して以来やっと叶った去年の夏、
「靑い種子は太陽のなかにある」
に出演させていただけたこと。
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『ちび!』
『豚足!』
『お前は気持ちわるいんだよ、
その事を忘れるな!』
『目立ちたがり屋!』
そして、
『可愛いなぁ…』
これは蔑まれているようで悔しかった。
『すずめ!』
『りりねです』と言い返すと、
『知ってるよ!りりね言いにくいんだよ!』と、
『小さくてがんばってるから『すずめ』でいいじゃん、芸名にしたらどう?』と、
わたし本っ気で悩みました。
「笹野すずめ」素敵だもの。
演出助手の尊晶さんから『世界の蜷川さんから命名されたなんて言ったら自慢できるよー』
直子さんからは『すずめちゃん♡もし本当に芸名変えるなら当日パンフレットの入稿まだ間に合うから言ってねー』
周りは半笑いだったけれど、
わたしは本っ気で悩んでいたのです。
数日後『りりねのままにします』と告げると、
蜷川さんは『すずめね。』と笑っていた。
その後もわたしのことを『すずめ』と呼び続けてくださった蜷川さん。
とっても嬉しかったです。

憎くて悔しくて、
歯が欠けそうな勢いで食いしばらせてくるその一言一言、
常に図星を突いてくるようなその一言一言、
もっと聞きたかった。
もっと浴びたかった。
けれどもう叶わない。
けれど悲しんでばかりもいられない。
桐朋で、
昨年の稽古場でも蜷川さんは
『大切なひとが亡くなってあの世へ逝ってしまってものすごく悲しくても、自分たちは芝居をしなくちゃならない。役者なんだから。どんなに悲しくてもしたたかに凛々しい顔をして芝居をしなくちゃいけないんだよ。プロなんだから。それが出来ないのならば今すぐ役者を辞めなさい。』
と仰っていた。
先日の葬儀で蜷川さんをお見送りさせていただきました時も、
長女の実花さんが撮った遺影のお写真からその言葉が聴こえてくるようだった。

蜷川さんが命がけで闘われていた舞台創作をご一緒できたこと、
生涯の財産宝物になりました。
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夢のような、
けれども確かだったあの時間を
空気を
お姿を
眼差しを
魂を
お声を
ことばを
とてつもない厳しさを
とてつもない優しさを
すべて忘れません。

きっとムカつかせてしまう、
嫌われてしまうことを言います。
はい、
わたくしは最高に幸せな役者です。

わたしが逝くのはまだ先になるけれど、
またいつかあの世のものつくりの場でお会いできる日が訪れますようにこれからも必死で芝居を続けて生きます。
信じてすずめらしく。

蜷川さん、
ほんとうにありがとうございました。
そしてこれからもよろしくお願いいたします。

御冥福を心よりお祈りしております。。。


笹野すずめ