ずぅーっと飲めなかった珈琲を、
飲めるようになりました。
それから、
好むようになりました。
それはそれは突然に、
serial number「アトムがきた日」の稽古期間中で去年の冬からのことです。
それまでは『とっても苦いお飲みもの』というものでしかなくて…
劇団員時代に稽古場のケータリングエリアを管理なんぞするとき、
珈琲への興味がないばっかりにコーヒーメーカーでの粉の目安を学ばずして『りりぃ濃い!』『りりぃ薄い!』と幾度も芝居以前のダメ出しをいただいていたものだ。
そんなダメ出しが幾度もあったじぶんを少し可愛らしくも感じてしまうけれど、
いゃ、今はそれ以前に学ぼうとしなかったじぶんを叱りたい。
そんなわたしがどうして…
じぶんでも正直よくわからないのだ。
『飲めるようになりたいぜ』
などと思ったわけではありませんの。
ある日の稽古場で、
漂う珈琲の香りに『いい香りだわん』『わたしもいただきたいなぁ』と思った、のだ。
その日から、
わたしは完全に珈琲処女を奪われた。
という去年の冬から今日にかけて、
わたしのなかに確実な変化が生まれている。
飲めなかった珈琲を好むようになった、
ようなモノゴトがたくさんある。
たとえば性質的なこと…
『あなたにわたしのなにがわかるの。』
みたいな負けん気じみたモノを抱えて、
強がった戦闘態勢で生きてきてしまった自負が実のところはあったり、しちゃう。
まあ単純に云うと、
トガりというやつ。
しかし冷静に考えよじぶん、
わかるわけないだろうと、
仮にわかってどうしたと、
逆にじぶんは他者を丸々っとわかろうとしてきましたかと、ってお話しだ。
もちろん今も自負みたいなものはある、
んだけど邪魔なプライドを見分ける力と、
見分けた邪魔を棄てることにビビらなくなっている。
とか…
基本ひとに嫌われてしまうことをあまり畏れてはいないけれど、
わたしを嫌うそのひとのことを真っ直ぐに知りたくなったりする、ようになった。
そういう他者への興味から学ぶことがたくさんあることを知りはじめた。
じぶんを知る、ということは、
他者を知る、ということ、だな、とな。
じぶんの名前をおぼえてもらうには、
ひとの名前をおぼえること、
と似ているのかもしれない。
だから、このひとのものの見方や捉え方はわたしとは違うぞ、で終わらせない、
で視てみーちゃお。
とか…
あとお友だちってなんだろう、
なんて、ずーっと思っているけれど、
わたしのなかで親友、心友、信友、真友のどれかに当てはまらないと友とは呼べない気がしていて、
それは場合によっては結婚相手や恋人よりも特別な存在のように感じるものだったりする。
よく『友達以上恋人未満』という表現があるけれど、
わたしは『恋人以上お友だち』だと思っているところがあって、
そんな特別な存在となれば日常のなかで積極的に何人もつくるんだもん、とは、ならない。
のだけど『おっと、このひととは友になれるかもしれないやい』『友になりたいやい』ってね、以前よりも想うようになって、いる。
ほかにも色々ん、
変身を視ている。
それはきっと、
去年末に生活環境のお引っ越し、
去年までお付き合いしていたひととお別れをして、新しくお付き合いしはじまっているひとと過ごしている時間…
本当は大好きだったお祖父ちゃんの他界…
笹野鈴々音の代表作となる映画撮影ロケ…
担当マネージャーさんが突然に変わる…
わたしたち夫婦関係の在るかたち…
とかとかの出来事や変化によって、
『トガり』みたいなモノが少々の『まろみ』
へと変身しているの、かも、しれまへん。
とは言え、姿かたちあるモノではないし、
目に見えないコトばかりだから、
あっという間に角々しだすのかもしれぬ。
わたしの嫌いとする食べもの、
それは『とっても苦いお食べもの』の代表だと思っているゴーヤ(苦瓜)もいつか好んでるんるん食べてる瞬間がやって来るのかしらん…♪