昨日、大雨の中、無事、両親の納骨をすることができた。
一昨日と今日は、こんなに秋晴れ青空なのに
昨日は、寒〜い大雨😵
雨除けパラソルを二つ立てて、お坊さんが丁寧にお経をあげてくださった。
なんとも印象に残る納骨となった。
ふと、二つも納めることできるのかしらん?と思ったが
祖父母様と曽祖父母様の4人が眠っているが
骨壷としては、祖母の1つしかなかった。
終戦の前年、祖母は幼い父と弟を連れて、義両親がいる高知へ疎開した。
その疎開中の半年足らずで、祖母にとっての義両親と夫を亡くし
幼い父と弟を連れて、東京の自分の実家に戻り、
玄関で、何もかもなくなってしまった…と言っていた、と
父を育てた、祖母の母が昔、話していたらしい。
その後、祖母が今のお墓を即断即決で購入したと、
昨年、母とお墓の相談をしたとき、母から聞いた。
父にとって、実父は、出征する日のことを、わずかに覚えているだけで、
実母は、父が12才のときに亡くなっているので、それなりに記憶がありそうなものだが
父曰く、病気で奥の部屋に寝ていた記憶くらいしかなく
こう言ってはなんだが、あまり御先祖様とかお墓とか
こだわりがないんだよなー、なので、墓仕舞いし合葬の永代供養でいいよ!と
父は昨年、ケロッと話していた。いかにも、父らしい。
昨日の納骨で、お墓の蓋を開けたのだが
考えてみると、祖母が亡くなった時以来、実に70年ぶりに開けたわけだ。
そして、開けてみて驚いたのが、
骨壷が、そのお墓を購入した祖母のみだけであったことと、
その骨壷の横に、わずかにお骨だけがあった。
石材屋さんが言うには、おそらく木箱に入れてて、
木箱は朽ちたのでしょうと。
もう想像するしかないのだが、おそらく、こういうことではなかろうか。
高知への疎開先で、祖母の義両親が亡くなった。
まだ戦時中で遠路はるばる幼い5才の父と、3才の兄弟を連れて
祖母は東京まで戻ったが、その時に、骨壷2つを運べなかったため
分骨して小さい木箱に入れて、持って帰ってきたのだろう。
(父の祖父は地元の名士で、地元で祀られたと子供の頃に聞いたことがある)
終戦の年だから、77年前か。
昨日、私は旦那さんと、両親の骨壷を東京の西の霊園まで電車で運んだが
重くて、道中なかなか大変だったこともあり、
(傘も途中から傾いて、ひー!となりつつも
旦那さんともども二人とも体制も戻せず、濡れながら早足で駅まで歩く)
祖母はさぞ大変だっただろうなぁと、我が事のように自然と想像がついた。
祖父つまり父の父は、終戦の前年に戦死しており、何も残っていない。
祖父は職業軍人で亡くなったのは33才だ。
そして、祖母は7年後に、まだ36才の若さで亡くなっている。
それから70年、ずっとここで待っていたんだなぁ。
祖父と祖母は、父ですら、ほとんど記憶がなく
私にとっては生まれた時から鬼籍に入っている遠い人だったのだが
昨日は、私は今までの人生で、初めて祖父母に思いを馳せた。
今の私より、遥かに若い頃に、どれほど大変だったであろう。
どんな想いで亡くなったのだろう。無念だったろうなぁ。
残された家族や子供のことが気がかりだったろうなぁ。
昔の戦争の時代の大変さに、気付かされた。
父は、ケロッと、あんなことを言ってたけど、
父と母を、祖母のお骨の横に並べることができて、良かった。
東京都の歴史ある広大な霊園で、昨日は紅葉🍁が綺麗だった。
この季節に来たのは初めてだ。いつも3月のお彼岸の頃、桜の季節しか知らなかった。
これからは、母と父の命日や、いろんな季節に来よう。