昨年5月に母が亡くなり
先月8月末に、父も旅立ってしまった。
そう遠くはないだろう、3年持てば御の字、
父自身、母が亡くなったあと、2年くらい自宅にいて
そのあとホームかな、なんて言ってたのに…
あっけなく、あっというまだった。
昨年は、母の病状も進み、亡くなる半年前の
まだコロナ面会禁止される前の一昨年11月に面会し
あぁ、もうすぐかもしれない、と思った。
その後から、ますます、せめて母の気持ちが楽になるように、
何かちょっもした楽しみはないかと、
母の生きる喜び、命の火を消さないように必死だった日々。
あろうことか、父は自分の嘆きと自分の体調の悪さと、
実家の犬を持て余してる苛立ちを母にぶつけた。
医者説明を看護師の姉にも同席してもらおうとセッティングしたら
その日は温泉旅行を計画していた姉が激昂し、
姉と父は大喧嘩となり、二人ともそれを母にぶつけた。
姉は音信不通となり(と母から連絡が来た)
放っておいたのだが、
その後は、母だけでなく、精神的に父のケアも重なり
二人分を背負うのは、キツイなぁと。
いよいよ母が旅立ちの時だ、と私は分かり、
病院からの連絡キーパーソンは私に変わり、
最後のお別れや、見送りをした。
自宅でとてもいい感じで家族葬ができたのは良かったが、
終わりよければ全て良しだね!と、えらい賑やかな姉と父、
延々と世間話、ワイドショーネタのような話を大声でする二人と
同じ空間にいることが苦痛でたまらず、
一人、外に散歩に行ったり、一人和室を閉めて母に話しかけたりして、偲んだ。
その後、分骨と相続に関して、二人と会う必要があり、
一度だけ実家に訪れたが、それから、私はしばらく一人で母のことを受け入れる時間が必要だった。
姉は、もう何年も(10年以上か?)実家に帰ってこなかったが
父を心配して、足繁く通っていた。
それは大変ありがたいことだった。
どうしても私は、母の最後の退院で家で過ごしたいと願った母の気持ちをぶち壊しにした父と
向き合うことができなかった。
父にそれを言ったことはない。なぜなら恨み言を言うとしたら、それは母であって、私ではないから。
母は、そんな父を分かっていて、恨み言は一言も言わなかった。
むしろ、それを受け入れて、そんな父を心配して、私にサポートして欲しいと言った。
でも私は昨年の今頃は、まだとてもそんな気になれなかった。
姉が代わって気にしてくれてて、あぁ良かったと、
任せたといえば聞こえはいいが、私は逃げた。
しかし、冷静に考えてみれば当たり前の結果だったともいえるが、
ほどなく、姉と父は衝突していた。
昨年の8月には実家で罵倒し合い、実家から姉が帰ろうとしたら
父が泣きながら玄関まで来たと、姉からの連絡があった。
その書き方、泣いたことを嘲笑するような書き方に、私は気分が悪かった。
その直後に父は体調を崩し、9月に入院。
さすがに入院となったので、まだその後は姉が病院に医師説明を聞きに行き、父と面会もしたそうだ。
そしてなんと、姉は父と会ったのが、それが最後である。
9月10月は、父と電話で話したそうだが、毎度喧嘩となり、私に延々と父を罵倒する連絡が来た。
10月には、入院先の父のフォロ、病院からの連絡先は私にスイッチされた。
その後、リハビリ転院、一度は退院、また再入院、そして老健入所、7月に発熱で再入院し、
8月に入院先で院内コロナ感染し、体力低下してたこともあり、永眠した。
コロナ陽性でも当初は軽症だったようだが、2週目で容態悪化し、家族面会したほうがいいとの連絡。
つまり最後を覚悟する連絡だが、姉は、それにすら来なかった。
なんとかコロナ対応専門業社を駆使して、私は父も母と同じように翌日家へ連れ帰った。
おそらく昨年の母の時、自分もこうして欲しいと思っていたんじゃないかな。
姉は、連れ帰った翌日にやってきた。
昨年と同じように、ペラペラとよく喋っていた。
(私は聞いてなかったが、旦那さんが相手をしてくれた)
しばらく時間がかかりそうだが、相続と実家の片がついたら、姉との縁をほどこう。
父と母は、それを許してくれると思う。