母の希望が

直葬、戒名なし、お墓仕舞いして合葬へ

だった。


父は、病院から火葬へ直行と思っていたようだ。

なんとまぁ、無神経な…😓


母の意図は、いわゆるお葬式ではなく、家族でシンプルに送って欲しいという意味合いだ。


母の最後の退院は、悔いが残るものとなってしまったので

母を見送ることに関しては、父には任せず(どのみち調べてもいなかったし)、自分で考えて進めた。


結果的に、とてもいい送り方をできた。


亡くなった翌日に、自宅へ連れて帰り

母がいた和室の畳の上に寝かせた。

そう、まず第一に、家の畳の上に寝かせてあげたかったのだ。

この日は、しとしと一日雨だった☂️

まだ爽やかな季節の静かな優しい雨で

なんだか一緒に泣いてくれてるようで

私には慰められるような雨だった。


また、この時の様子で近所の方が気付いて

母と非常に親しくしていたという方が

庭に飛んできて、とても泣かれていた。

その日の午後に、お花を持って訪ねてきて下さり、お線香をあげてくださった。


随分長く、母のそばにいてくださり

その様子を見ていて

コロナを気にして、家族だけで…と思っていたが

やはり近所で親しくしてた方には

連絡だけはすることにした。


翌日、自宅で納棺士さんに湯灌をして頂いた。

母は、おしゃれで、服道楽だったと言ってもいい(笑)。今も時々帰って、ちょいちょい半袖をもらって帰ってきてるが、どんだけあんねん!!🤣というくらい、洋服がある。


だから、もう長いこと身につけていなかったスカートとか、おしゃれ着にしてみようかなぁと。


センスのいい姉が洋服を見繕い、淡いピンクのブラウス、スカートを着せた。

死化粧をしてもらって、琥珀のネックレスとブローチをそっとつけた。


わ〜昔のお母さんだ。いつか見た日のお母さんだった。


午後には、母の姉や、近所の親しくしていた方々が、来てくださった。



その日は、いわゆるお通夜。

母が眠る和室の隣のリビングで

父、姉、私の旦那さん、私の4人で、精進料理。

もちろん母にもお供え。

なかなか美味しかった☺️


ちょうどこの食事が終わる頃に

素晴らしく美しい夕陽だった。

私は、そっと席を立ち、二階から夕陽を眺めたっけ。

お母さん、家から、そして地上から見る最後の夕陽だねーってベランダで話しかけたな。


そして3日目の土曜日。朝から快晴☀️

納棺の儀。


母が使っていた、手提げ、帽子、靴、

好きだったマスカット🍇

洋服では冥途に行かないと困るので

白の死装束と一式も入れる。


私は前日に書いた母への手紙を、そっと入れた。


そして、お花でいっぱいにした💐


近所の方が沢山来てくださった。


まだワクチンは行き渡ってない時期だったので、

前日の電話ではワクチン後に伺います、という方もいらっしゃった。

それは当然だし、ほとんどそうだろうと思っていた。

(実際のところ近所でコロナで亡くなった方もいるし)

ところが、この日は、次々と伝わったようで

多くの方が訪ねて来られ、皆さん躊躇なく家の中に上がられ、お線香をあげて、お花🌼を添えてくださった。


そして、出棺。

家の前から霊柩車とタクシーで出発したが

皆さん、その時まで外で待っていて下さり

見送ってくださり、その気持ちが嬉しかった。


母は戒名なしとしたが、戒名なしでもお経をあげられるので、火葬の前にお坊さんにお経をあげて頂いた。これも頼んで良かったと思う。



おそらく母は、

このコロナ禍だし、多くの交友があるわけでもないし、親戚はほぼ旅立ってたり、遠方高齢なので、式場で行うのは、大変だし高いし、寂しい感じになるだろう、そんなことを思って、直葬と言い残したのだと思う。


そんなわけで、自宅で家族で、としてみたのだが

結果的に、家でこのようにしたことで

むしろ御近所の方も、来てくださりやすかったのだ。


いろんな方が訪ねて下さるのが

父も姉も私も、正直、驚き、そして嬉しかった。


この住宅地に越してきて30年。

母がここで生きてきた証、母の人柄、母の人生を感じるようでもあった。


いい形で見送ることができた。


母が亡くなる前々日から、葬儀について調べ始め、前日に自分なりに、こんな風にしようとイメージをつけ、母が亡くなる日の朝に準備できたよ、と送った。もう数日前から意識もなくメールは読めていないのだが、通じていた気がするのだ。


私、頑張ったよ。

母も満足してくれたと思う。