母は、決して人に意地悪なことをせず
親切か、不親切か、と言ったら
圧倒的に親切な人だった。
掃除洗濯もキチンとマメで
私は子供の頃に、お友達の家に遊びに行き
自分の家よりキレイな家は
ほとんどなかった。
ただ、なんでもキッチリしすぎており、
また、ひがみっぽかったり
本人は悪気もなく気づいていないが
イヤミだったり、水を差すような発言は
多い人だった。
私が子供の頃から、父への愚痴もおおく
聞かされる末っ子の私は
たまらなく嫌で嫌で仕方なかった。
私が衝突したり、家から足が遠のいたのは
そのあたりが原因だ。
かくいう私は、見事にその
ひがみっぽさや、皮肉や氷水発言の血を引いており😅
それは10年ちょっと前の
自分の心の病をきっかけにして気づき、
伴侶のおかげで、だいぶどっかに消えた。
話を戻し、
そんな母なので
とても親切で、子供を育てる過程でも
家事全てにおいても
素晴らしくマメに丁寧に働き、育ててくれたのだが
なんといいましょうか、
優しい母親という印象を持っていなかった。
世の中、優しい人なんて
そうそういるものでもないので
別に、そんなすごく優しい母と思えないことも
フツーと思っていた。
母が亡くなり
何かにつけて、母のことを考え
手がかりとなる母の足跡(メールとか)を追っている。
そうした中で、あれ?と気づいたのだ。
晩年、何かと無神経な父や姉に対して
心配する気持ちや、困ったわ…と
私にたまに言うことはあったが
昔のような愚痴とは随分ニュアンスが違うものだった。
母の最後の入院中の荷物を片付けようとして
これがノートに挟んであった。
2月の入院で、あぁこれは最後かも…と
母も相当落ち込んでいたので
コロナで病院面会禁止の中をコッソリと
母に15分だけ会いに行って
差し入れした1つが、
瀬戸内寂聴さんの日めくりカレンダー📆
母は、あまりこの手のものは
ピンと響かないようで
退院時には、捨てちゃったと言ってたが😅
数枚を裏紙メモ代わりとはいえ
残していた。
5,6枚あったのだが
優しさに触れてる日めくりが
残されていた。
母は、優しくありたいと
強く思っていたのではなかろうか。
私から見ると
本当に呆れるほど
最後の最後まで無神経なメールをしていた
父と姉。
2月の入院で、かなり状況悪かった時
父のいつもの思い込みにより
姉が激怒し、それをなぜか母にぶつけたらしい。
父もそんな姉に激怒し、おそらく母にぶつけていたであろう。
そのときも、母は私には心配かけまいと思ったのだろう、多くを語らなかったが、
姉が殻に籠ってしまったわ…とだけ言っていた。
昔の母なら、私に愚痴っていたであろう。
でも晩年の母は、私に対して
はっきり言って
父の怠慢が故に、家にいられず
最後の再入院した後でさえ
お父さんが落ち込んでるから
サポートしてあげて、と言ってきた。
私は、えぇーーー⁉️
恨み節でもいいんじゃないの💢と思っていたので
母の真意が分からなかった。
父が面倒くさがって、準備を全くしていなくて
今後も期待できないから
母は、もう家にはいられない…
と承知の上で
それでも、父が自分の怠慢を棚に上げて
辛い辛いと母に言ってきたから
私にサポートしてあげて、、と
言ってきたんだ。
母は、この闘病の数年の間に
いつのまにか変わっていたのだ。
優しさを大事にしようとし
そして優しい母になっていたんだなぁ、、と
分かった🥲
私がその昔の大変な時期の後
私も優しくありたい、と思ったものだ。
(過去形、、、笑😅)
優しさ、それはとても難しい。
今は、とても父に優しくする気になれない。
姉に対しても。
幸か不幸か、姉が途端にせっせと父を気遣うようになり、ホッとしている。
今、私にできることは
晩年ギリギリまで、父と姉の言動に
母は心を痛めていたが
それを今更わざわざ彼らに言わないことだ。
言わなきゃ、気づかないだろう。
気づいたら、辛くなるだろう。
だから、気づかないままにしておくことが
せめて今私ができる優しさ…(と自分を励ましている)
葬儀後に、終わりよければ全て良しだねー!と
能天気な発言をする彼らに
つい言いたくもなるが
ぐっと堪えて、
全然違うおしゃべり大笑いしてる彼らから
すっと離れて散歩に出かけてた。
今私ができる精一杯の行動。
母もそう望んでいるはずだ。