「プリズンホテル 春」 浅田次郎


■登場人物表(登場順)■
木戸孝之介/偏屈な小説家。 極道小説がベストセラー。 孤独な少年時代を過ごす。 清子と美加を連れ、スイート『紅葉の間』に宿泊。
美加/清子の連れ子。けなげな性格。絵描きの才能がある。
清子(お清)/孝之介と一緒に暮らすように。一途な性格。
荻原みどり/丹青出版、<仁義の黄昏シリーズ>の担当者。今は副編集長。実は孝之介の小説の熱烈なファン。『杉の間』に宿泊。
岡林和夫/大日本雄弁社のベテラン編集者。 東大出のインテリ。キザで冷酷。『楓の間』に宿泊。
小俣弥一(おまたやいち)/五二年ぶりに刑務所を出所しシャバの空気を吸う。元・相良直吉の舎弟。齢は八十過ぎ。競馬で大当たりし一千万ほど手に入れる。『菊の間』の客。
原田の旦那/元マル暴刑事。 弥一の身元引受人になった。
楠堀留/会社を経営するものの不景気の波に煽られ、経営に苦しむ。 しかし競馬はやめられない。 『菊の間』の客。
富江/孝之介の育ての母。 最近まで孝之介と二人で暮らしていた。
花沢繁/カタギの支配人の一人息子。 現在学校に通いながらホテルの仕事の手伝いもこなす。
三浦真一/繁の学校の担任。孝之介に自分の書いた小説を読んでもらいたい。『萩の間』の客。
春野ふぶき/娘とともに『富士見の間』に宿泊。地味な舞台女優。娘をスターにするべく、ステージママに。
さくら/ふぶきの想いを一身に受ける娘。 母に似ず、美少女である。
黒田旭/若頭兼あじさいホテルの番頭。 若い頃、孝之介の母親とかけおちする。
フランケンの安吉/斬られのヤスとして長い間親分のタマヨケをしていたが、今はホテルの従業員。
花沢一馬/カタギの支配人。 フロントマンの鏡。 完璧な接客をする。
鉄砲常/かつて東映映画のモデルにもなった伝説のヒットマン。 今はあじさいホテルのバーテン。
大曽根勉/関東桜会、仲蔵の弟分に当たる。武闘派。出っ歯に反っ歯の金歯である。 亡き相良直吉総長の跡目候補?
木戸仲蔵/関東桜会、五人衆の筆頭。親分。あじさいホテルのオーナーであり孝之介の叔父。
女将/孝之介の生みの母。 仲蔵の亡き兄と結婚していたが、黒田と駆け落ちした。
今井秀太郎/「週刊時代」の『ぶっちぎりエッセイ・荒野のろくでなし』担当者。
服部正彦/クラウンホテルからやってきたシェフ。 料理の腕は超一流。
梶平太郎/あじさいホテル、先代オーナーの時代から板場を任された料理長。神の包丁を持ち、誰もが唸る料理の腕の持ち主。


28
岡林和夫がまどろみから目覚めたのは午近くだった。 木戸先生が疲れきった顔をドアから覗かせていた。

「おまえに見せたいものがあるんだが、いいかな」と、先生は原稿用紙の束を差し出した。
「へえ、手書きですか。 今時珍しいですね」 原稿は一枚をニつ折りにしてきちんと綴じられている。
日頃ワープロの活字ばかりを見ている岡林にとって、それは妙に生々しい存在感があった。
「手書きの原稿って、そんなに珍しいのか」
「はい、新人賞の応募原稿が約千篇あったんですけど、九百七十いくつまでがワープロでした。 手書きというのは年配の方の自叙伝みたいな代物で、まあ箸にも棒にもかかりません」
たしかにこのところのワープロ原稿の台頭には目を瞠るものがある。 
岡林が入社したころには、まだほとんどが手書き原稿だった。
まさに日進月歩の進化だった。 今や編集部のどこを探しても、手書きの原稿用紙など見当たらない。


「おはようございます」
控えめな声に振り返ると、荻原みどりが窓際のカウンターに座ってコーヒーを飲んでいた。
湯上りの髪が濡れている。
「よう、オギワラ、おまえもこっちへ来いよ。 いいもの見せてやる」
「私、おジャマ虫ですから、遠慮しときます。 それに、ここでやっとかなきゃならない仕事がありますから」
二人に背を向けると、みどりは角封筒から原稿を取り出してセッセと校生を始めた。


岡林は原稿綴の表紙を開いて、突然真顔になった。
決して達筆ではないが、一字一句もゆるがせにしない万年筆の文字が、ぎっしりと原稿用紙の升目を埋めていた。
欄外の書き入れも、消し字もない。 訂正の部分には修正液すらも使わず、原稿用紙の升目の大きさぴったりに、切り貼りがしてあるのだった。

「三浦真一・・・・・誰ですか? 何となく執念を感じるような原稿ですね」
「まったく無名の新人だよ。 彼はテレビも映らない山奥の分教場でずっと小説を書いていたそうだ。 執念というわけじゃないね。 つまり、楽しみがそれしかなかった。 読むことと書く事しか、彼にはなかったんだ」
「プロットを、お聞かせ願えますか」
「北海道の僻地に赴任した若い教員が、たったひとりの教え子に恋をする」
「ロリコン?」 木戸先生は蔑んだ目を岡林に向けた。
「あとは、読めばわかる。 小学校六年生の少女と、学生運動に敗れた青年教師の四年間の暮らしを、淡々と書き綴っている」
「何だか、時代錯誤(アナクロ)ですねえ・・・・・」
「評価は読み終えてからにしたまえ。 少くとも俺は、かつてこんなに清らかな小説を読んだことがない。 こんなみずみずしい感性を持った作家を知らない。 こんなに完璧な、磨き上げられた文章は、見たことがない」

<北の別れ―――三浦真一>
タイトルも作者名も、一見して精彩を欠いている。
どうあがいても日の目を見ることはない、という感じがする。
しかし、冒頭の数枚を読んで、岡林和夫は背筋を伸ばした。




温泉街を見下ろす七曲りの峠まで来て、原田老人は倒木に腰を下ろした。
こうして汗をかくのもひさしぶりのことだ。

「さてと、昼にすっか」 独りごちて、リュックサックを下ろし、駅弁を開いた。
生ぬるい緑茶の缶を引き開ける。
眼下の景色を眺めながら、よくもまあこんな山道を登ってきたものだと思った。 近頃ではすっかり体力が衰え、犬の散歩も億劫だというのに、杖を頼りに二時間も登る力が、いったい自分のどこに残っていたのだろう。


府中の欅並木で小俣弥一を見送ったあと、原田老人は良心の呵責に悩み続けた。
真実を告白して詫びることができなかったのは、八十を過ぎても抜けきらぬ刑事根性のせいだった。 誤って懲役五十二年という悲劇を作り出してしまったコンピュータにかわって詫びることのできる人間は、自分をおいて他にはいないと思った。 関東桜会の木戸仲蔵が経営するホテルに行くのだと、小俣弥一は別れ際に言い残した。

バス便はなかった。 タクシーはなぜかどれも乗車拒否をした。
仕方なく駅前の駐在所に行き、OBなのだがパトを用立てちゃくれねえかと頼むと、巡査は露骨にイヤな顔をした。 OBって言ったって警視庁でしょう、なんでうちの県警が警視庁のOBにパト貸さにゃいかんのだ、と冷たく拒まれた。

巡査は男の足なら一時間かそこいらだ、と言ったが、一時間歩いても山は深くなるばかりだった。
自分がとっくに男ではなくなっていることに、原田は歩きながらようやく気付いた。
入れ歯を音たてながら、原田はゆっくりと弁当を食った。 足が棒のようだ。 ホテルまでたどり着く自信はなかった。

長い時間をかけて食事を終えると、原田は食べがらをきちんと紐でくくり、リュックサックに収めた。 
残飯と煙草の吸い殻は、路端に穴を掘って埋めた。
杖をつき、曲がった腰をさらに折り曲げて原田は歩き出した。

ともかく、これが最後のお勤めだ。

一歩ごとに、数知れぬ修羅場が甦った。
警視庁に奉職したのは、昭和も初めのころだった。 二・二六事件の戒厳令も、統制下の弾圧的な取締りも、空襲も敗戦も、昨日のことのように思いうかぶ。 戦後の混乱、パンパンの狩り込み、レッドパージ。 
東京オリンピックの警備、過激派との対決。 三億円事件の聞き込み捜査では、いったい何足の靴を買い替えただろう。 自分はいつも正義だった。 
自分の存在が正義そのものであり、世の不正をただすことが自分の使命であると信じて生きてきた。

悪を看過したことは一度もなかった。 仕事をなおざりにすることこそ罪悪だと考えてきた。
鬼警部と呼ばれ、恐れられ、表彰状も勲章も、星の数ほどもらった。
歩きながら、原田は乾いた唇を噛み締めた。 法律に背くことが悪で、人道に悖ることが悪なら、コンピュータのまちがいも悪に違いない。 少くとも、ひとりの人間を不幸にした。

道は勾配にかかった。 杖にすがる手は慄え、時折腰が砕けて、原田は砂利の上に膝をついた。
置いた心臓は耳の奥で不穏に轟き続けた。
立て。 立ち上がれ。 正義は決して屈してはならない。 俺は、おまわりだ。
すべての悪を、俺はたださねばならない。
よろよろと立ち上がった唐松林の彼方に、そのとき原田はふしぎなものを見た。
所在の照会をした孫が、駅前の駐在が、タクシーの運転手が、口を揃えて言ったおどろおどろしい悪の巣窟。

―――プリズンホテルだ。




帳場の畳敷にブッ倒れたまま身じろぎもできぬ黒田を、花沢支配人は力強く抱き起こした。

「・・・・・そっと、そっとしておいて下せえ、支配人・・・・・俺ァ、俺ァもうダメだ・・・・・」
「何を弱気なことを言っているんだね。 たかが銭カネの問題じゃないか。 気をしっかり持ちたまえ」
「銭カネって、簡単に言いますがね。 五千万ですぜ。 五千円じゃねえんですぜ。 うちの親分はいっけん太っ腹に見えるけど、あれで銭勘定にはけっこうセコいんだ」
「その点については私もこのごろうすうすとは勘づいている。 しかしだね、黒田君。 今時五千万の借金なんて、べつに珍しくはないよ。 バブルの時期に目の玉の飛び出るようなマンションを買わされて、いまだにローン返済に苦しんでいる人はいくらだっているんだ。 服部シェフなんて、京王線多磨霊園駅から歩いて二十三分のワンルームマンションを、三千万も出して買った。 給料の大半は返済に充当されている。 しかもですよ、今売るとなったらご百万がせいぜいだって、ハハッ、笑っちゃいますねえ」
「・・・・・支配人、いってえ励ましてるんですかい、おちょくってるんですかい」

そうだっ、と支配人は手を叩いた。 「名案があります。 こうすればいい」
あたりをはばかりながら耳打ちする支配人の名案を聞いたとたん、黒田はうんざりとした顔になった。
「自己破産? あっしが?」
「そうです、十三年間タダ働きの返済計画なんて、十分に破産者の対象でしょう」
「待ってくれ。 だとすると、債権者は泣きを見やす。 そりゃあ親不孝ってもんだ。 子分が自己破産して親分が債権を放棄するなんて、常識にかからねえ。 第一渡世の笑いものですぜ」
ダメか、と二人は同時に溜息をついた。



29
午後六時、放免バクチの名を借りたチンチロリン・デスマッチは、いよいよ終局を迎えていた。

生き残った三名の競技者のうち、いったい誰が最終的に勝利を収めるのか、この予測はたいそう難しい。
まず、バクチに勝つための重要な要素である「体力」から言うなら、年齢の若い楠堀留が圧倒的に有利である。 
なにせ仲蔵親分とは親子ほども齢の差があり、俣オジこと小俣弥一とは孫と子のちがいがある。
しかし、「気力・根性」という要素から予想を立てれば、セコく、たくましく、極道歴五十余年に及ぶ現役総会屋、木戸仲蔵が絶対有利と言わねばなるまい。 この点、俣オジはとっくに枯れ果てており、楠堀に至っては生来が資質にかけている。

だがしかし、バクチには「技術」が必要である。
五十二年間のブランクがあったとはいえ、かつて「四一の弥一」の二つ名を持った俣オジの駒を上げ下げする技術は、やはり群を抜いている。 まさに至芸、名人の域である。


「シィ~~~ゴォ~~~ロォ~~~」
「メェ~~~ナァ~~~シィ~~~」

今までとは違い、決して「!」を付けられぬか細い声が大広間をすきま風のように通り抜けた。
すでに三人とも目がカスんでおり、反応も鈍い。 賽を振った姿のまま、仲蔵親分は石になっていた。
「ドボンですよ、親分」 「どうやらパンクのようだな、仲蔵」
俣オジがフッと息を吹きかけると、仲蔵親分は右手で虚空を掴んだまま、あおのけに倒れた。
「もうやめようよ、じいさん。 何だかわけがわかんないけど、おたがい大金持ちになったことだし」
生き残った二人の周囲には砦のように札束が積み上げられていた。
「痩せても枯れてもこの小俣弥一、カタギに情をかけられるほど落ちちゃあいねえぞ。 さ、白黒つけようじゃあねえかい」
「体こわすってば」
「ケッ、体ならもうとっくにこわれてらい。 とっとと振りゃあがれ、このタコ」
高く積み上げられた札束は、このところの騒動で仲蔵親分が住専各社から、大曽根親分が製薬会社からムシリ取った金である。

「じゃあ、こうしようよ、じいさん。 あと一回。 おたがいドンと張って、泣いても笑ってもあと一回。 な、そうしよう」
「よおし。 親も子もなし、出た目のデカい方が勝ちでどうでえ」
「わかったよ、じいさん。 だけど、本当にこの一回きりだからな。 泣いても笑ってもこれで寝てくれよ」
「じゃあ、行くよ」 「あいよ、気合入れてけ」
乾坤一擲の気合を込めて、楠堀は賽を振った。 五、ニ、ニ。 出目は「五」である。
「ほう、五(ゴケ)か。 なかなかやるじゃあねえかい。 どうれ―――」
と、俣オジはいちどドンブリを手に取って鉢の中に息を吹きかけた。 
片膝を立て、浴衣の襟から両の腕を抜き上げる。

一瞬、楠堀は目を疑った。 そのとき俣オジの胸のしおたれた緋桜が、今し一斉に花開いたように見えたのだ。
「行くぜ客人。 今更名乗るもおこがましいが、大川端の上ゃ千住、三河島、下ァ佃、月島まで、賭場てえ賭場にその人ありと恐れられた緋桜の弥一たァ俺のこった。 泣こうがわめこうが、一天地六の賽の目渡世、この銭、ビタ一文残さずもらって帰るぜっ!」
賽を振り上げた小俣弥一は、決して八十五歳の老人ではなかった。
そのとき楠堀は、半世紀の時間を踏み越えて甦った「緋桜の弥一」の精悍な姿を確かに見たのだった。


「勝負ッ!」


ドンブリが乾いた音を立てた。
三、三、四。 ひと目ちがいの賽を見下ろしたまま、二人は長いこと動かずにいた。
ややあってようやく目を上げた楠堀の前に、老いさらばえたひとりの老人が、ちんまりと座っていた。
「ま、そういうこった・・・・・」 「じいさん、あんた―――」
老人の姿が溢れ出る涙の中で歪んだ。

「じいさん、あんた、わざと負けたな。 俺はわかってた。 あんた、神様みたいにサイコロの目を勝手に出せるんだろう。 わざと、四の目を出したんだろう」
「うるせえ。 四の五の言わずに、とっとと持って帰れ」
灰色にしぼんだ彫物が悲しかった。 この人は自分に金をくれたのではない。 勇気をくれたのだ。
そう気付いたとたん、楠堀は札束の山を蹴散らかし、老人の小さな膝に顔をうずめて子供のように泣いた。

俣オジの掌が、頭を撫でた。
「おめえはやさしいやつだ。 だがよ、男はやさしいだけじゃいけねえ。 強くって、やさしくって、辛抱のきくてえのが、本物の男なんだぜ。 おめえはまだ若え。 しっかり性根を据えて、本物の男になれ。そうすりゃ銭なんざ、勝手に後からついてくる」
この人こそ男の中の男だと、楠堀は老人の膝の上でいくども肯いた。
「さて、夜桜でも見に行くか。 生あったけえ晩で、放免桜もよっぽど開いたことだろうぜ。 どうでえ、花見で一杯ェ」 俣オジは言いながら、よろめくように立ち上がった。



ちょうどそのころ、三階の「楓の間」では大勢の人々が車座になって黙りこくっていた。
輪の中央にはコードレスホンの受話器が立てられている。 室内の空気は異様なほど緊張しており、隣に座る人物の心臓の鼓動が耳に触れるほどだ。
人々はじっと受話器を見つめている。 どの顔にもびっしりと脂汗がうかんでいた。
窓の外でふくろう翔いたとたん、全員の背中がビクリとちぢみ上がった。
つい先程はうっかり夕食の都合を聞きに来たゴンザレスが袋叩きにあった。
時の経つほどに、まるで世界の終末が近づくように人々の息づかいが荒くなった。

「・・・・・七時だぞ・・・・・ダメ、かな・・・・・」
「木戸先生は、どこにいるんだ・・・・・」 「さっき、お風呂へ・・・・・」
「・・・・・けっこう余裕だな」
「いえ、きっといてもたってもいられないんだわ。 お風呂に浮かぶぐらいしか、できないのよ・・・・・」
「・・・・・もう、たくさんだ。 こんな気持ちは・・・・・」 「私も。どうかなっちゃいそう」
プッ、と誰かが屁をこいた。 人々はいっせいに肩をすくめ、髪の毛を天井に向かって逆立てた。
「だ、誰だ。 不見識にもほどがある・・・・・」
「・・・・・ごめんなさい。 つい、気がゆるんで・・・・・」

突然、重苦しい沈黙を破って電話が鳴った。
何しろ屁の一発で髪の毛が逆立つほどの緊張の中である。
人々は悲鳴を上げて立ち上がり、右往左往するばかりで誰も受話器を取ろうとはしなかった。
有を鼓して、今井が慄える手を伸ばした。
「もしもし・・・・・はい、木戸先生はただいまお風呂に入っておられます。 いえ、あいにく奥様もご一緒です。 もしよろしければ、かわってご用件をお伝えいたしますが。 私、『週刊時代』の担当者、今井と申します―――」

荻原みどりはいたたまれずに耳を被った。 体は今にも砕け散るほどに慄えていた。
永遠に思える数秒間を、みどりは目をきつく閉じ、奥歯を噛み締めて耐えた。
歓声が背中に伝わった。 よかった。 きっと岡林さんの作った<哀愁のカルボナーラ>が受賞したのだ。
カーテンにすがってがっくりと膝を落としたみどりの肩を、今井が握った。
満面の微笑をたたえながら囁きかけられた言葉は、みどりにとってまさしく神の声だった。


「オギワラ、おめでとう。 君がグランプリ・エディターだ」


拍手が湧き起った。 
振り返ると、総立ちになった編集者たちが、天にも届くほどの拍手と喝采を自分に向けていた。
「おめでとう、オギワラ!」
「やったじゃないか。 すごいぞ!」
「早く先生に伝えてやれよ。 おまえの口から」
みどりは駆け出した。 重い鋼鉄の扉を力いっぱい引き開け、長い廊下を一目散に走った。
夢じゃない。 これは夢なんかじゃない。

私の木戸先生が、丹青出版の<仁義の黄昏>が、日本文芸大賞を獲った!

男湯の暖簾をくぐり、畳廊下を突き当たると、湯殿から先生の陽気な歌声が聴こえた。
お得意の「無法松の一生・度胸千両入り」だ。
「小倉ァ、生まァれでェ、玄海ィそだァちィ、とくらァ!」
「せ、せ、せ、先生ッ!」
「くうちィも、荒ァいいがァ、気も荒いィ、だっ!・・・・・どうした、オギワラ・・・・・」
たすきがけの女将さんが、先生の背中を流していた。
二人はどことなく似た顔を、一緒に振り向けた。
硫黄の湯の溢れ出る湯殿に駆け込んで、みどりは力一杯の明るい声を張り上げた。
「おめでとうございます、先生!<仁義の黄昏>が、グランプリを受賞しました!」
一瞬の間を置いて、女湯から「ええっ!」と奥様の叫び声が聴こえた。


しかし、先生は少しも愕かなかった。 唇をわずかに歪めたきり、むこうを向いてしまった。


「愚痴やァ未練はァ、玄海なァだにィ、だっ! 捨てェてェ、太鼓のォみいィいだァれェ打ちィ、とくらあっ!」
「せ、先生。 あの・・・・・」
「おとこォいィちィんんだァあいィ! 無法ォォおおんまァああつうゥ、とくらァ!」
「あの・・・・・おめ、おめでとう・・・・・」
みどりは後ずさった。 湯殿をすっぽりと被う、この空気の冷ややかさは何だろう。
決して他人の口をはさめぬ氷のような世界の中で、先生は素頓狂な声を張り上げ、女将さんは黙々とその背中を洗い続けている。
「失礼しました。 それじゃ、のちほど・・・・・」
みどりはそう言いおいて湯殿を去った。


「・・・・・おふくろ、もういいよ」


みどりが去ってしまうと、ぼくは母の手から身をかわした。
母は着物の裾が濡れるのもかまわずに、じっとうずくまっていた。
「オレ、受賞を拒否するよ。 どうしてだか、おふくろにはわかるよな」
母は泡だらけの掌で顔を被ってしまった。
湯舟に飛び込むと、ぼくは鞭でもふるうように母を責めた。

「あんたを、グランプリ・マザーにしたくない。 祝福を受けるべき母は、他にいる。
富江があんたのために姿をくらましたのなら、ぼくは自分の未来をとざしても、あんたをぼくの母だとは呼べない。 そんなこと、あたりまえじゃないか」



30
その夜、奥湯元には暖かな南風が吹いた。
巨きな満月が峰の端に昇り初めるころ、唐松林のしじまを破って爆音が轟く。
やがて闇に砂埃を巻き上げながら、マイクロバスや四駆のワゴンや、ハイヤーやオートバイやジープが、パリダカの難所越えのように七曲りの峠を駆け登ってきた。

「カシラッ! てえへんだ! 気絶してる場合じゃねえでしょう。 ついに本格的な関東侵攻大作戦が始まりやした!」 フランケンの安がただでさえ怖い顔をミイラのように引きつらせて帳場に転げ込んだ。
「な、なんだと!」 目に見えぬ借金の重みに押しつぶされていた黒田は、ガバッとはね起きた。

月に一度の消防訓練と、週に一度の迎撃訓練のたまもので、身のこなしは軽い。
とっさに畳をおっぱずして窓に立てかけ、床下から武器を取り出す。 ブランド志向の仲蔵親分の趣味により、きょうび流行のトカレフなんぞという量産品は一丁もなく、「コルト・ガバメント」「ワルサーP38」「ブローニング・ハイパワー」等等のマニア垂涎の名湯が並ぶ。 しかもそれらは、カクテルと拳銃だけが生きがいのバーテン兼ヒットマン・鉄砲常の手によって、新品同様に磨き上げられていた。
黒田はブローニングに九ミリ弾十三発入りの弾倉を叩き込むとマイクに駆け寄り、チャイムを連打した。

「業務連絡ッ! 全従業員、業界関係者、ならびに任侠団体客はただちにロビーに集合ッ! イマージェンシィ・レベル3!」

レベル1は「ガラス割り」、レベル2は「殴り込み」、レベル3は「喧嘩(でいり)」の意味である。
非常配電盤を開けてスイッチを倒すと、ロビーの大ガラスにスルスルと防弾シャッターが降り始めた。
カラオケバー「しがらみ」のドアを蹴破って、鉄砲常が走り出た。 すでに両手に拳銃、額に「七正報組」の鉢巻、腰のベルトにはアイス・ピックとペティナイフを差した完全装備である。

三人は玄関の太柱とフロントカウンターの中に身を潜めた。
「これァ手強そうだな・・・・・おい、安。 いってえどのくれえ来やがったんだ」
「へい、カシラ。 今しがた屋上からフクロウのバードウオッチングをしていやしたら―――」
「・・・・・相変わらず暗え趣味だな」
「へい、おそれ入りやす。 赤外線スコープの中に、マイクロバス二台、ワゴン三台、ハイヤー五台、その他乗用車四台、バイク十数台、フクロウ三羽、モモンガ一匹が目にへえりやして、こいつァてえへんだと」
「うう・・・・・みなごろしか・・・・・カタギの客は気の毒だなあ」
「カシラ。 やばいぜよ、築山に人がおりますけえ」 ナニッ、と黒田は身を乗り出した。
ライトアップされた放免桜の根元に人影がある。
「あれァ、小俣のオジキと客人ですけえ。 気の毒にのう、まずは血祭りじゃろ」

と、ふいに和やかなタガログ語の笑い声とともに、仲居の一団が階段を降りてきた。
「オイッてめえら! 何してやがる、危ねえからスッこんでろい!」
仲居頭のアニタが、きょとんと愛嬌のある笑顔を向けた。
「ハッハッ、カシラァー、チャカダメヨ。 カチコミジャナイノネ」
「へ?・・・・・ち、ちがうのか」
「ニュース速報デヤッテタネ。 木戸先生、グランプリトッタノヨ。 ココデ記者会見スルッテ、アレハ新聞社トカテレビ局ノ人タチヨー」
花沢支配人が廊下を走ってきた。
「アッ、来た来た。 黒田君。 安ッさん、常さん、とりあえずピストルはしまいなさい。 それから、ここに金屏風を置いて、テーブルとマイク。 アニタ、君はお泊まりになる方の人数をチェックして下さい」

支配人が言い終わらないうちに、光の渦が前庭になだれこんだ。
次々と車寄にすべりこんだ車から、記者とカメラマンが飛び出し、撮影器材が下ろされる。
報道陣は早くもフラッシュを炸裂させながら玄関に殺到した。
支配人は叫ぶ。
「お靴を、お靴をお脱ぎ下さい。 当館は温泉旅館でございます!」
カチコミ同然であった。 
パニックに陥ってあやうく発砲しかける鉄砲常を、支配人はかろうじて押さえ込んだ。
呆然と立ちすくむ黒田の脇で、レポーターがしゃべり始めた。

「スタジオのクメさん?―――こちら本年度の日本文芸大賞に決定した木戸孝之介さんがご逗留中の、奥湯元あじさいホテルです。 えー、私たちも今しがた到着したばかりで、詳しいことはまだわかりませんが、木戸さんはこちらで受賞決定の報せをお聞きになったようです。 ただいまロビーに記者会見用の金屏風が運び込まれました。 まもなく木戸孝之介さんもこの席につかれると思いますが―――アッ、いま木戸さんのおかあさまがいらっしゃったようです」

「よさねえか」 黒田は思わずレポーターの襟首を掴んだ。 「やめてくれ。 女将は関係ねえだろうが」
ADたちが黒田を押さえつけ、群衆はおろおろと佇む女将を荒波のように呑み込んだ。
ほんの一瞬の間に、黒田の頭の中は三十年間の暗い記憶でいっぱいになった。
人垣の果てから、女将は救いを求めるように黒田を見つめていた。
「やめろ、やめてくれ。 あいつを、ちえ子を責めねえでくれ。 悪いのはちえ子じゃねえんだ。 俺が、俺がちえ子の人生をめちゃくちゃにしちまったんだ!」
黒田の叫びは喧噪の中にかき消された。




「はて・・・・・いってえ何の騒ぎでござんしょうねえ」
築山の東屋で花見の盃を傾けながら、小俣弥一はガラス玉のような瞳をホテルの玄関に向けた。
「ずいぶんと行儀の悪い団体客もいるもんだ・・・・・あ、ほれ楠堀さん。 またひとつ咲きやしたぜ」
弥一の夢見るような視線を追って、楠堀は頭上にのしかかる桜の枝を見上げた。
いったい何百年の時を経た桜であろうか。 黒々とした太い幹は巌のようである。
枝先を見つめながら、楠堀はアッと声を上げた。
満月を背にした蕾のひとつが、まるで小さな薬玉の割れるように、ポカリと花開いたのである。
注視していると、いかにもうららかな春の夜風に誘われるかのように、ひとつ、またひとつと白い花が開いていく。

「あっしァ、こういうさまをずっと見てきやした。 府中の雑居の窓辺に大きな桜がありやしてね。 五十二年間、することが何にもねえもんだから、春の夜にゃジイッと花の開くさまばかり見つめていたもんです。 シャバの皆さんにゃ、とてもそんなヒマはねえでしょうが」
日本が、この老人にいったい何をしたのだろうと楠堀は思った。
どういう事情で、この人は五十二年もの懲役を務めねばならなかったのだろう。
もしそれが正当な裁きの結果であるとするなら、何かまちがっている。
「・・・・・あっしァ、ずるい男です。 任侠の風上にもおけやせん」
老人は丹前の肩を慄えわせて、さめざめと泣いた。
「そんなことはないよ、じいさん。 あんた、弱い者をかばって懲役に行ったんだろう。 それこそ任侠の鑑じゃないか」
「いえ、あっしァずるい男です。 のうのうと懲役くらってる間に、日本はてえへんなことになりやした。 若い者は戦で死んじまって、女子供は空襲や原爆で焼き殺されやした。 みんなが一生けんめいに働いて、せんよりもっと立派に造り上げた世の中にね、放免だって、帰って来たんです。 五十二年間、あっしァ汗もかいちゃおりやせん。 ひもじい思いもしちゃおりやせん。 あっしァ、くされ外道でござんす。 卑怯者ンの、ずるい男でござんす・・・・・」

楠堀は宥める言葉が思いつかなかった。 足元には、敷布にくるまれた札束が置かれていた。
「じいさん・・・・・あんた・・・・・」
「こんなことでね、五十二年もタダメシを食った罪がつぐなわれたとは思いやせん。 でもね、府中を放免になった朝、あっしァ心に誓ったんです。 誰かを幸せにしてやらにゃならねえって。 ねえ楠堀さん。 これっぱかしの銭で、大の男が幸せになるとは思えねえが、せめてかみさんに指輪のひとつも買ってやっておくんない。 もっと何かをしてやりたくたって、この老いぼれにできるこたァ、これが精いっぺえなんです。 どうか笑わねえでおくんなさいよ」

楠堀は血の滲むほど唇を噛み締めた。 感謝の言葉は何ひとつ思いつかなかった。
膝の上に涙とよだれをこぼしながら、楠堀は誓った。
「じいさん、俺、幸せになるからな。 おっかあにはでかいダイヤを買ってやって、子供らはみんな、大学まで出してやるからな。 会社もシャンとさして、若い衆にも仕事を教えて、戦争になっても焼けねえビルや家を、いっぱい建てるからな。 俺、約束する」
「かっちけねえ。 これで地獄の閻魔様も、ちったァお仕置に手心を加えて下さることだろうぜ」



ホテルの門前にたどり着いたとたん、原田老人はもう歩くことも立つこともできなくなった。

ホテルは木の間に見え隠れしながら、いつまでも近づかなかった。 日が落ちてからは真っ暗な夜道を、杖を捨てて這った。 途中、何代もの車やバイクが追い抜いて行ったが、枯木のような老人には誰も気付かなかった。
いやむしろ、原田はヘッドライトから身を隠したのだった。
理由は、自分の力で歩きおおせねばならぬ道だったからだ。
正義のために、自分はこの夜道を、最後まで自分の力で歩き通さねばならないと思った。
原田は一頭の老いた獣のように地を這った。 荷物はどこかに捨ててしまった。
ズボンの膝が抜けて血が流れ、手指の爪は剥がれているが、ふしぎと痛みは感じなかった。
柔らかな芝生の庭に這い寄って、原田は膝立った。 満開の桜が頭上を覆っている。

「あれ・・・・・原田の、旦那、かい?」 小俣弥一だ。
「何やってんだよ、旦那。 いってえ、どうしたってえんだ・・・・・」
原田は満身の力をこめて立ち上がった。
俺はおまわりだ。 ほかの理屈は何もない。
すべての国民の幸福のために身を捧げてきた自分が、ひとりの男を不幸にした。
「弥一―――」
敬礼をしかかって帽子を取り、禿げ上がった頭を深々と垂れて、原田はずっと考え続けてきた言葉を、はっきりと口に出した。


「小俣さん。 まことに申し訳ない。 自分はあなたにひどいことをいたしました。 自分は、命とかえてでもあなたに詫びねばなりません。 まことに、まことに申し訳ありませんでした」


気の脱けた声で、弥一は答えた。 「ひどいことって・・・・・旦那はあっしに何もしちゃいませんよ」
「もとい。 日本国はあなたに対してひどいことをいたしました。 繁栄にうつつを抜かし、機械文明に頼って職務を怠ったあげく・・・・・あなたの・・・・・あなたの一度きりしかない人生を台無しにし・・・・・憲法の保障するところの基本的人権を蹂躙し・・・・・あまつさえ、過誤に気づいてもあなたに詫びようとすらせず・・・・・自分の非ではないとおっしゃるのなら、自分は今、日本国になりかわって、あなたに謝罪いたします。 まことに、まことに申し訳ありませんでした」
「旦那・・・・・」 小俣弥一はガラス玉のような瞳を、いつしか満開に咲いた頭上の花に向けた。

そして、しみじみと呟いた。  「あっしァ、放免になったんですねえ―――」
暖かな風が渡った。 
放免桜はその満開の腕をいっぱいに拡げて、二人の老人を花の帳の中に、すっぽりと包み込んだ。



続く