プリズンホテル、冬。 最終回です。

「プリズンホテル 冬」 浅田次郎


■登場人物表(登場順)■
木戸孝之介/偏屈な小説家。ヤクザ小説がベストセラーに。紅葉の間に宿泊。
荻原みどり/丹青出版の若い女性社員。 仁義の黄昏シリーズの原稿を欲しい。 孝之介を追いかけホテルへやってくる。杉の間の客。
清子(お清)/孝之介が金で買った女。病気の母と娘とともに暮らす。 孝之介に付き添い、あじさいホテルへ。
富江/孝之介の育ての母。
阿部マリア/通称<血まみれのマリア>・救命救急センターの名物婦長。 菊の間の客。
サチコ/国道沿いのレストランでウエイトレスをする、笑顔の素敵な女子大生。 しかし強盗に頭を撃たれて死亡。
黒田旭/ホテルの副支配人&若頭。 孝之介の生みの親と駆け落ちし添い遂げる。
花沢一馬/支配人。カタギの雇われ支配人。誠実なホテルマンの鏡。
花沢繁/支配人の一人息子。 学校を休学してこの秋からホテルでフロントマンをしている。 元暴走族。
木戸仲蔵/ヤクザの親分であじさいホテルオーナー。 孝之介の叔父である。
平岡正史/仲蔵の担当医。 萩の間に宿泊。マリアとは昔恋人同士だった。
太郎/自殺しようと山奥にやってきた少年。
武藤嶽男/エベレストにも登った有名なアルピニスト。
梶平太郎/板長。 この冬、「あじさい山岳会」を結成し、山登りに精を出す。
服部シェフ/花沢支配人とともにやってきたカタギの料理人。 副料理長。
フランケンの安吉/仲蔵親分のタマヨケを長年してきた、いかつい顔の従業員。
鉄砲常/かつては伝説のヒットマン。 今はホテルのバー「しがらみ」でバーテンをしている。
アニタ/タガログ語まじりの日本語を話す、ホテルの仲居。
ゴンザレス/タガログ語まじりのホテルの番頭。 この冬、板長らとともに山登りを。





20
まばゆい雪晴れの朝だ。
夜明けとともに峠から除雪車がやって来て、ホテルの門前までの雪をおっかなびっくり掃くと、
逃げるように帰っていった。 黒田の号令でスコップを手にした若者たちが玄関までの道を掻いている。
名残惜しげに厨房から見送りにでてきた「あじさい山岳会」のメンバーを、武藤嶽男はうんざりと見渡した。

「奥壁第四スラブを登る。 俺は他人に教えるのは嫌いだが、見学するのは勝手だ」
白衣の山男たちは、おおと顔を見交わした。
「待ってよ、おじさん」 見送る人々の間を割って、少年が走り出た。
武藤は関りを避けるように、細く掃かれた雪道を歩き出した。
「待ってよ。 行かないでよ」 「なんだぼうず。 まだ俺に用事があるのか」
「僕はどうすればいいの」 「しようのないやつだな。 自分で考えろ」
「どうしていいか、わからないんだ」 「あれこれ考えるな。 男の選ぶ道は迷うほど多くはない」
武藤はすがりつく太郎をひきずったまましばらく歩き、サングラスを外して立ち止まった。
「よおし、それじゃ神様に決めてもらおう。 おまえの選ぶ道は二つに一つしかない」
「二つに一つ、って?」

「生きるか、死ぬかだ。 それさえはっきりと決まれば、難しいことは何もない。 昨日だって、おまえはそれをはっきりと決めていなかったから、あんあぶざまなことになった。 ちがうか?」
武藤は光り輝く大神楽の頂を指し示した。
「山登りでも、一番難しいことはそれなんだ。 麓のベースキャンプから岩肌を見上げて、何時間も、時には何日も登攀路を読む。 そして決断ができたなら、途中で迷ってはならない」
「神様がどうなって僕の道を決めるのさ」
「ジャンケンをしよう。 ザイルパートナーと意見が分かれたとき、俺たちはよくそうする。 勝ち負けじゃない。 山の神様がそうして最善のルートを教えてくれるんだ」
「僕が勝ったら?」
「初心貫徹。 すぐにきのう下ってきた道を引き返せ。 龍神尾根に寝ていれば、夕方までにはちゃんと死ねる。 俺は二度とおまえを救けはしない」
「おじさんが勝ったら?」
「すぐに家へ帰れ。 除雪車が雪を掃いてくれた。 電話をする必要も、警察の厄介になることもない。 東京に帰って、今までどおりに生き続けろ。 一回勝負。 うらみっこなしだぞ」

考える間もなく、武藤は「じゃあん、けえん」と濁声を張り上げた。
太郎はとっさに、武藤の目論見を悟った。 
振りかざした武藤の右手には親指と人差し指しかないのだった。
自分で決めろと、武藤は言ったのだ。
「じゃあん、けえん、ポン!」

太郎はグーを出した。 武藤は鉄砲の格好のチョキを出した。

「そういうことだ、ぼうず。 神様の決めたことに文句はあるまい」

武藤は二度と振り返らなかった。 庭続きの深雪を選んでラッセルをし、赤いヤッケが唐松の林に消えてから、嗄れた、ふしぎなくらいよく通る歌声が吹き過ぎる風に乗って聴こえてきた。
太郎は栄光のソロクライマーがやがて登りつめて行くだろう、大神楽岳の、切り上がった奥壁を見上げた。 雪をかき分けて築山の東屋に上り、濡れたベンチの上でかじかんだ膝を抱える。 武藤が二本指で力強くふるうハンマーの音を、どうしても聴きたいと太郎は思った。



「帰るぞ。 いつまでめかしこんでるんだ。 ほかの男の視線がそんなに気になるのか」
鏡に向かってルージュを引く清子のうなじを、ぼくは思い切り踵で蹴った。
「あいたっ。 ごめんなさい、先生。 じき終わります。 一分、一分だけ待って下さい」
「よおし、一分だな。 いぃち、にぃ、さぁん―――」
ぼくの秒読みにせかされて、清子の唇はタラコのようになった。

それでも美しい。 こいつは神様がこの世に造り出した、傑作中の傑作だ。
秒読みの声は途中で挫けた。 ぼくはいったいどうしたら、清子をぼくのものにすることができるのだろう。 ぼくが世界中で一番愛している、太陽よりも水よりもかけがえのないこの女を、いったいどうやったらぼくの心の中にしっかりと抱きとめることができるのだろう。
愛の言葉をぼくは知らない。 そんなものは誰も教えてはくれなかった。
「先生、どうしたんですか。 何が悲しいんですか」
「おまえが悲しいんだよ。 おまえを見ていると、何の因果で俺はおまえみたいなアバズレと一緒にいなきゃならねえのかって、何でよその男のガキや心臓病のババアまで食わせなきゃならないのかって、それが情けなくってつらくって、泣けてきちまうんだよ」

ぼくは清子の髪を掴んで引きずり倒した。 なすがままにされる清子を殴れば殴るほど、涙はとめどなく溢れるのだった。 こうすることのほかに、ぼくの野性の力で殴ったり蹴ったりすることのほかに、ぼくは清子を愛する方法を知らない。
唇が切れて、清子は血を噴いた。
こいつを愛した男たちは、みんな同じようにしただろうとぼくは思った。 そういう愛され方に慣れているから、清子はじっと耐えるのだ。 泣くことも叫ぶこともせず、耐え続けるのだ。

「おまえなんか、ブッ殺してやる。 それだけはどいつもできなかったろう。 死んじまえ。 あとのことは心配するな。 ババアの葬式はちゃんと出してやるし、ミカは立派に育ててやる。 それでもう思い残すことはないだろう」
ぼくは清子の腹に馬乗りになって、狂ったように清子を殴り続けた。
ふいに、清子は思いがけぬ強い力でぼくの拳を握り止めた。
「それ、本当ですか。 ミカとおばあちゃんを、幸せにしてくれますか」
「ああ。 俺は嘘をつかない。 嘘と愚痴が大嫌いだってことぐらいおまえは知ってるだろう」
「知ってます。 それは、よく知ってます」


それから清子は扇をとざすように長い睫毛をおろし、きっぱりと言ったのだ。

「殺してください」と。


ぼくはゆっくりと立ち上がり、口元の微笑みすらたたえて清子の手を取った。
「わかったよ、お清。 山へ行こうな。 おまえは自殺するんだ。 俺の前から消えてなくなるんだ」
「お薬、いただけますか。 雪の中で眠ればそのまま死ねるって―――」
「そうだな、それがいい。 おまえは頭がいいよ」
鏡に向かって死化粧を整える清子はことさら美しい。 まるですべての縛めから解き放たれたように、清子は安堵していた。 死ぬことに何ひとつ恐怖もなく、そう命ずるぼくに何ひとつ疑いを抱くこともなく。

こいつは、不幸の標本だ。



「やあ、孝ちゃん。 もう出かけるのか」
ロビーのカウンターでコーヒーを啜りながら、仲オジは一夜にして生まれ変わったような笑顔をぼくらに向けた。 きっと血を抜いて血圧が下がったのだろう。
「千の倉沢を見物に行きます。 スノーモービルを出してくれませんか」
「そうかあ。 じゃ俺も行くかな、いい天気だし」
「ハッハッ、冗談は顔だけにして下さい。 ぼくたちは千の倉沢で、愛の誓いを立てるのです。 第一、スノモは三人が定員ですよ」

仲オジはさも嬉しそうにぼくらを祝福し、玄関を小走りに出て人を呼んだ。
元暴走族の少年の運転するスノーモービルが、忠実な犬のように駆け寄ってきた。
少年は磨き上げられた愛車の滴を拭い、まるでぼくらの破滅の介添をすることが彼自身の名誉であるかのように、満面で微笑みかけていた。
支配人と黒田はフロントから顔を覗かせて、行ってらっしゃい先生、と申し合わせたように笑った。 ぼくが清子の手を引き、そして共通の目的に向かって歩き出すことは、彼らにとって誠に悦ばしいのだろう。


運命の扉はぼくらの前に、次々と開かれて行った。 
それはまるで、ぼくがある文芸誌の新人賞を獲って以来、ほんのわずかの間に流行作家の仲間入りをした、あのめくるめく潮の流れによく似ていた。

世界中がぼくたちを祝福していた。 
ただひとり―――階段の踊り場からぼんやりとぼくを見送る、女将を除いては。

母は着物姿におよそ似合わぬ一輪のバラの花を持ち、おののくように小指の先を銜えていた。
ぼくの思い過ごしだろう。 いくら生みの母親とはいえ、ぼくの心の仲まで覗くことはできまい。
生えかけたバラの刺が、母の指先を傷つけたにちがいない。
ぼくの心は晴れ上がった冬空のように澄み渡っていた。
玄関で振り返って、清子の透明な表情をマフラーでくるみ、ぼくははるかな踊り場の母に向かって、おかあさん、じゃあちょっくら行ってきますよ、と言った。
時間も風景も、蒼穹に輝く太陽の下に凍えついていた。
ぼくと清子を乗せたスノーモービルは絵のように動かぬ冬景色の中を、まっしぐらに走った。

圧雪された岐路の上に眼下の絶景を見はるかして二つの人影が佇んでいた。
看護婦は帰り支度だが、医者は宿のゴム長靴をはいていた。
二人がこのあとどうなるのか、そんなことはぼくの知ったことではない。
医者も看護婦もひどく沈鬱な顔をしていた。 ぼくは胸の中で、ざまあみろ、そんなにうまいこと行ってたまるか、と呟いた。

スノーモービルは新雪を切り裂いて林道を走った。 突然目の前に雄大な眺望が豁けた。
大神楽の威容にひるむ少年を叱咤して、雪に埋もれた山小屋の脇を走り抜けた。
行けるところまで行け。 登れる限りを登れ。 ひと荒れすればたちまち雪崩の下に埋もれ、永遠の氷河にこの世で一番美しいものを、美しいなりに閉じ込めてしまう高みまで登れ。
轍はついに岩を噛んで止まった。

ぼくらは二人きりになる必要があった。 のしかかる岸壁に恐れをなして青ざめる少年に帰れと命じた。 怯えきって言葉が声にもならぬ少年を、ぼくは怒鳴りつけた。
幸い天気は良い。 スノーモービルの轍の跡をたどれば、帰ることはできるだろう。
少年は意味を成さぬ言葉をわめきちらしながら、全速力で走り去って行った。

ぼくと清子はしばらくの間、遥かな頭上に透き通った風だけが鳴る雪原に、黙って立っていた―――。



21
「ごめんなさい、先生。 ご迷惑をおかけしました。 堪忍して下さい」

四肢の痺れきるほどの長い沈黙のあとで、清子は深々と頭を下げた。
「おかあさんのこと、お願いできますか。 お見舞いとかはたまでいいですけど、病院代だけは、よろしくお願いします」
「わかってるよ。 今まで通りに、ちゃんとやるさ」
「ミカに、ランドセルを買ってあげて下さい。 絵の塾も、続けさせて下さい」
「ああ。約束だからな。 ルーブルに連れて行く。 芸大にも行かせる。 立派な絵描きにしてやるよ」

清子は長い旅路の涯でようやく重い荷を降ろしたように、ふうっと息をついた。
「ほかには?」
「いいです。 それでいいです。 なんだか、夢見てるみたいです」
ぼくは雪原に膝をついて、犬のように足元の雪を掘った。
「なにボサッとしてるんだ。 自分のことぐらい自分でしろ」
「はい。 やります、先生は待ってて下さいね」
「いいよ、手伝ってやるよ。 俺はおまえになにひとつしてやれなかったから、せめて墓ぐらいは一緒に掘ってやるよ」
清子は嬉しそうに墓穴を掘り始めた。
「おまえ、怖くないのかよ」
「怖くなんかないです。 そんなこと言ったらバチ当たります。 おかあさんをいい病院に通わせてもらって、ミカを絵描きさんにしてもらえるんだから。 日本一の小説家の先生に、みんなの面倒みてもらえるんだから」
「だから、もう死んじまっていいってわけか。 まったく張り合いのない女だな、おまえってやつは。 殴られたら殴られっぱなし、蹴られりゃ蹴られっぱなし。 死ねって言われりゃ、ありがとう、か」

ぼくの言葉の意味がわからんとでもいうふうに、清子はきょとんと目をしばたたいた。
何という無垢な、眩い(まばゆい)瞳だろう。

「あのな、お清。 俺は日本一の小説家なんかじゃないよ」
「ごめんなさい、先生。 世界一ですか?」
ぼくはあほらしくなって、話すのをやめた。 清子は冗談を知らない。
「私ね、先生―――」と、清子は素手で雪を掘りながら、まっしろな前歯を嬉しそうにこぼした。
「ずっと考えてたんです。 私はばかだし、貧乏だし、そんなに美人でもないからね。 だからおかあさんをいいお医者さんにもみせられないし、ミカをいい学校にもやれないでしょう。 もしそれを私のかわりにみんなしてくれる人がいたら―――」
「死んでもいいってか」
「だって、私のできないことを私のかわりにしてくれるんだから、私は消えてなくなってもいいんです。 ずっとそう考えてきたんだけど、男運が悪くって」
「よかったな、お清。 おまえの男運もまんざら捨てたもんじゃなかったぞ」
「このぐらいでいいかなあ。 首だけ出してもいいですか。 顔つめたいのいやだから」
「ああ、いいよ。 それがいい」
ぼくが喜ぶと、清子はうっとりと見つめ返した。

「先生、やさしいんですね。 他の男の人はみんな、ぶったり蹴ったりするだけだったけど、先生はちゃんと私のお願いを聞いてくれるもの」
「さあ、ぐだぐだ言ってないで、入れよ。 早く入れ」
清子は掘り上げられた雪穴の中に滑り込むと、きちんと膝を揃えて座った。
「先生、お薬」 「ああ、そうだったな」
と、ぼくはポケットから睡眠薬のシートを取り出し、一錠を清子の唇に押し込んだ。
「ほら、アーンしろ。 これはハルシオンっていうんだ。 いい薬だからとってもよく効く」
「怖い夢とか、見ますか?」
「夢なんか見ないよ。 俺は眠れないからこれを嚥むんじゃないんだ。 怖い夢を見なくてすむからさ」
安心したように、清子は肩をすくめてハルシオンを嚥みくだした。
「埋めるぞ」 「はい。 お手数かけます。 何から何まで」


ぼくはあわただしく雪を掻き入れながら、清子の安物のブーツが、コール天のズボンが、薄っぺらなダウンジャケットが視界から消えていくさまを、瞼に灼きつけた。
この女は世界中の不幸という不幸を、その美しい肢体の余すところなく呪符のように貼りめぐらせた、まったく不幸の標本だ。
そしていま―――ひとかけの幸せすらついに味わうこともなく、命と引き換えに母と子の幸福を得ることを無上の僥倖(ぎょうこう)と信じて、雪に埋もれて行く。 笑いながら、微笑みながら。
雪原に首だけを出して、清子はぼくを見送った。
「さよなら、先生」 「ああ、さいなら。 達者でな」 ぼくは雪原を歩き出した。

ぼくの捨てたもの、ぼくの埋めてきたもの、それはいったい何だろう。

ふいに、清子の末期の声がぼくを呼び止めた。
「先生、ひとつだけ、本当のことを言っていいですか」
「なんだよ」と、ぼくは背中で答えた。
「言っちゃいけないことなんだけど。 ぜったいに言っちゃいけないって、初めてのときから決めていたことなんだけど・・・・・」
「言えよ。 聞いてやる」
清子は急に涙声になった。


「ほんとは、先生のお嫁さんになりたかったです。 
いけないことだけど、とんでもないことだけど、
おきよは、先生の奥さんになりたかったです」


ぼくは遁れるように、こけつまろびつしながら雪の斜面を駆け下りた。
ぼくはいったい何を捨ててきたのだろう。 何を埋めてしまったのだろう。

深みに足をとられて打ち伏したぼくの目の前に、まぼろしのような紅色の絹がひるがえった。
大きな襟巻で頭を被った母が、脛まで雪に埋もれて佇んでいた。
母はまっしろな息を毒のように吐きながら、ぼくの頬をいきなり平手で打った。
「あんた、何をしたの。 いったい、何をしてきたの!」
「そんなの、見りゃわかるだろうが」
振り向いた雪原の涯で、清子の頭はがっくりとうなだれていた。

「かあさんだって捨てたじゃないか。 世界で一番大事なものを、命ととりかえたって捨てちゃいけないものを、捨てたじゃないか」
母は青ざめ、ここまで導いてきた少年に体を支えられながら、雪の上に膝をついた。
「そんなに、清子さんがじゃまなの? そうじゃないんだろう。 ほんとは、そんなんじゃないんだろう?」
「じゃまじゃないよ。 俺はかあさんの子だけど、自分の幸せのために、好きな人を捨てたりしないよ」
「じゃあ、あれは何なの?」
「どうしようもないんだよ。 お清のことが好きで、好きで、どうしていいかわからなくなっちゃったんだよ」

言葉を探しあぐね、黙りこくる母に向かって、ぼくは自分でも気が狂ってしまったんじゃないかと思うようなことを、大声で口にした。
「上野の動物園に行ったんだ。 餌が買えないから、花壇の花を摘んで、大好きなライオンさんや象さんに、はいどうぞってあげたんだ。 ぼくはこんなに愛しているのに、好きで好きでたまらないのに、あいつらはみんな横を向いちゃうんだ。 どうすりゃいいんだよ。 どうすればぼくの気持ちをわかってくれるんだよ」
母は、見もせず知るはずもないぼくの気持ちを、理解してくれた。
「かあさんは、おまえに何も教えてあげなかったから・・・・・でも、おとうさんは教えてくれたろう?」
「おやじはずっとミシンを踏んでた。 朝から晩まで。 何も教えちゃくれなかったさ、何も―――」

ぼくははね起きた。 凍え付いた胸が、かっと燃え上がった。
ゆるやかな雪の勾配を、ぼくはがむしゃらに駆け戻った。
薄目をあけてまどろむ清子を雪の中から掘り出し、ひきずり上げて、ぼくは父の教えてくれた愛の言葉を、泣きながら口ずさんだのだった。


「お清。 ぼくは君を愛している。 軽蔑しないでくれよ。 
好きになったんだから、しょうがないんだ。 どうしようもないんだ」


「・・・・・先生、どうしたの」
「好きになってくれとは言わない。 ぼくはへたくそな小説を書くしか能のない男だけど、格別の道楽はないし、体も丈夫だし、不自由させないだけの小金もある」
「・・・・・どうしたんですか、いきなり」
「一生のうち、二度とこんな恥ずかしいことは口にしない。 頼むよ、清子」
「・・・・・だから、なにが・・・・・どうしたの・・・・・」

ぼくは清子のうなじに鼻をうずめ、
父が富江に対して言い切ったのと同じだけの勇気をふるって、きっぱりと言った。



「お願いします。 ぼくと、結婚して下さい」



清子の体が、掌の中に握り締めた小鳥のように、ぴくりと慄えた。
睫毛のすきまにうっすらと見開かれた瞳から、凍ることのない涙が溢れ出した。
深い眠りから目覚めたとき、清子はこのことを夢だと思いはしないだろうか。
そのとき、父が教えてくれた愛の言葉を、ぼくはもういちど清子に言ってやろう。
二人の間を分かつ檻を引き破り、細い体を力いっぱい抱きしめて、ぼくが世界で一番、
誰よりも愛している、このかけがえのない恋人に―――。



林道を駆け登って行くスノーモービルを見送ると、マリアは踵を返して歩き出した。
「マリア、待ってくれ。 話を聞いてくれ」 平岡が切実な声で呼び止めた。
「まだ何か言い足らないことがあるの」
そっとホテルを出たマリアを追って、平岡は走ってきた。
ロビーから失敬してきたバラの花束を痩せた背中のうしろに隠すようにして、追いすがってきたのだった。

「もう一度、やり直してくれないか、あの日に、戻ってくれないか」
平岡は真っ赤なバラの花束を、そう言ってマリアの胸に差し出した。
「すてきなプロポーズね。 でも、おあいにくさま。 私には待ってる人がいるわ」
「え?―――ほんとうか」
「ええ、いるわよ。 毎晩毎晩、息を止めて、血まみれになって私に会いにくるの。 朝まで愛してやらなきゃみんな死んじゃうのよ」
マリアは差し出された花束を平手で叩き落とした。
凍ったバラの花は、おびただしい愛のカケラになって砕け散り、こなごなに宙を舞った。

腰に拳を当て、仁王立ちに立ってマリアは指を振った。
「あれもこれもやろうとしない! いい、やらなきゃならないことを、ひとつずつ、正確にやる。 ここは戦場よ!」
どやされたインターンのように、平岡は一瞬背中を伸ばした。
「僕には君が必要なんだ。 君がそばにいてさえくれれば―――」
「もう人を殺さずにすむ、って言うの? 情けないこと言わないでよ。 ペインクリニックの権威じゃないの。 いい、ドクター。 ホスピスでは、あなたが法律よ。 自信を持って、どんどん殺しなさい」

「待ってくれ、マリア。 僕は君を―――」

「愛するのはあなたの勝手。 私もたぶん一生、あなたを愛し続けるわ。 でもそれを口に出すほど、あなたも私も安くはない。 あなたはどんどん殺す。 私はどんどん救ける。 それでいいじゃないの」

マリアは輝かしい雪の道を、大股で歩き出した。
「さあ、リフレッシュしたわ。 マリア様のお出ましよ。 仕事するぞォ、待っててよみんな。 私が行くまで、ぜんぶ動かしとくのよ! 止めるな。 ひとつも止めるな!」
マリアは胸を張って、歩きながら泣いた。
涙を拭えずに顔を上げると、青空のきわみになすすべもなく死んでいった少女の笑顔がうかんだ。


(サッちゃん。 これでいいでしょ。 私を、許してくれるよね)


とめどなく溢れ出る涙を拭いかねて思わずハンカチを探ったとき、突然、晴れ上がった空に、鋼鉄の楔をうちこむ音が響いた。
「なに。 あの音?」
平岡も疲れた眉を開いて、山々に谺する清らかな音を探していた。 「なんだろうな―――」
二人はすべてを忘れて立ちすくんだまま、いずこからとも知れぬ楔の音を聴いた。



同じその瞬間、小説家は恋人を抱きすくめたまま、清子は深い夢の中で、胸を搏つ美しい音を聴いていた。
女将と繁は雪原に立ったまま、「あじさい山岳会」のメンバーは一列になってラッセルを切る唐松の森の中で、仲蔵親分と花沢支配人はロビーの大窓を見上げて、力強い鋼の音を聴いた。
黒田はたどたどしくコンピューターを操る指の動きを止めた。
荻原みどりは横たわったまま、窓の外に目を向けた。
太郎はかじかんだ体をもたげた。
東屋の濡れたベンチで凛と背を伸ばし、そそり立つ大神楽の奥壁に目を凝らす。


勇者のふるうハンマーは、国境の峰を巻く風に乗り、高々と朗々と、
それを心から待ち焦がれていた少年の耳に届いた。

そのとき太郎は、冷え切った胸の奥に清らかに鳴り響くピトンの歌声を、たしかに聴いた。




こんばんは(^^)
プリズンホテル、「冬」はそれまでよりも重いテーマの作品でしたね。 「生」と「死」。
本編では冬景色が満載で(写すにあたり、だいぶ削ってしまいましたが^^;)とても冬らしい小説でした。

孝之介のドSっぷりがさらにエスカレートしてて、ドン引きするシーンも多数ありましたが、
最後のプロポーズには胸打つものがありました。
しかし恋人(?)を首から下、雪に埋めるな(笑)
次の「春」ではどうなってるんでしょうね、孝之介、改心してるんでしょうか。
続きを読むのが楽しみです。

あと「あじさい山岳会」が面白かったです(笑) 梶板長、すっかりお笑いの人になってるし。
全身登山スタイルで武藤氏の部屋まで階段を登っていくところ、映像にしてほしいです。

では、「プリズンホテル 春」、次が最後ですね。 近いうちに読みたいと思います!