「プリズンホテル 冬」 浅田次郎


■登場人物表(登場順)■
木戸孝之介/偏屈な小説家。ヤクザ小説がベストセラーに。紅葉の間に宿泊。
荻原みどり/丹青出版の若い女性社員。 仁義の黄昏シリーズの原稿を欲しい。 孝之介を追いかけホテルへやってくる。杉の間の客。
清子(お清)/孝之介が金で買った女。病気の母と娘とともに暮らす。 孝之介に付き添い、あじさいホテルへ。
富江/孝之介の育ての母。
阿部マリア/通称<血まみれのマリア>・救命救急センターの名物婦長。 菊の間の客。
サチコ/国道沿いのレストランでウエイトレスをする、笑顔の素敵な女子大生。 しかし強盗に頭を撃たれて死亡。
黒田旭/ホテルの副支配人&若頭。 孝之介の生みの親と駆け落ちし添い遂げる。
花沢一馬/支配人。カタギの雇われ支配人。誠実なホテルマンの鏡。
花沢繁/支配人の一人息子。 学校を休学してこの秋からホテルでフロントマンをしている。 元暴走族。
木戸仲蔵/ヤクザの親分であじさいホテルオーナー。 孝之介の叔父である。
平岡正史/仲蔵の担当医。 萩の間に宿泊。マリアとは昔恋人同士だった。
太郎/自殺しようと山奥にやってきた少年。
武藤嶽男/エベレストにも登った有名なアルピニスト。
梶平太郎/板長。 この冬、「あじさい山岳会」を結成し、山登りに精を出す。
服部シェフ/花沢支配人とともにやってきたカタギの料理人。 副料理長。
フランケンの安吉/仲蔵親分のタマヨケを長年してきた、いかつい顔の従業員。
鉄砲常/かつては伝説のヒットマン。 今はホテルのバー「しがらみ」でバーテンをしている。
アニタ/タガログ語まじりの日本語を話す、ホテルの仲居。
ゴンザレス/タガログ語まじりのホテルの番頭。 この冬、板長らとともに山登りを。



15
電話の呼音でぼくは目覚めた。

清子はすうすうと愛らしい寝息を立てて眠っている。
起こさぬようにそっと手枕を抜き、裸の肩を毛布で被う。
毎朝の習慣で、下半身の健康を確認する。 ぼくはまだ若い。
受話器を取ると、支配人の耳に障らぬ声が外線電話の入っていることを告げた。
いつに変わらぬ完璧な気配りである。 なにしろこの支配人は時と場合によって声音さえも使い分けるのだ。寝覚めの時刻はそっと囁くように、朝ははつらつと、昼は慇懃に、夜はしめやかに。支配人にかわって聞き覚えのある明るい声が耳に飛び込んだ。

<おはようございまあす! 大日本雄弁社の―――>

一瞬、電話を切ろうとした。 しかし声の主は書籍編集部の担当者ではない。 ならば恐るるには足るまい。 大日本雄弁社は出版界のガリバーだから、編集部がちがえば他社も同然なのである。 案の定、電話は「週刊時代」からだった。

<今井でえす! 来週号の『荒野のろくでなし』、ゲラが出ましたけど、ファックス送っていいですか。 じゃなかったら、バイク便出しますけど!>
いつも思うのだが、週刊誌の連中というのはどうしてこうも明るいのだろう。 もっともそういうノリで作らなければ、娯楽性は維持できないからなのだろうが。
『荒野のろくでなし』には力を入れている。 万が一小説家で食えなくなったあかつきには、エッセイストに変身してやろうという下心があるから、保険をかけるつもりでマジメに書いているのだ。 経済学的に言うのなら、エッセイストは地球上で最もワリの良い仕事でもある。

「赤入れるところなんてありゃしねえよ。 まちがいはてめえんとこのワープロだけだ。 そっちで直しとけ」
と、ぼくは書籍編集者には絶対に言わない対週刊誌用の粗雑な物言いで答えた。
<しかしですねえ、また不適当な表現がありまして、そこいらをちょっと>
たちまちこみ上げた怒りのために、ぼくの下半身は萎えた。
「またか。 ・・・・・ヒャクショーをヒャクショーと言ってなぜ悪い」
<いや、その、いちおう編集コードというものがありまして、これはその代表的な―――>
「あのな、今井。 いつも言ってんだろ。 ヒャクショーがダメなら、『サラリーマン』はどうするんだ、『物書き』はどうするんだ。 『産婆』は。 『漁師』は。 『ホステス』は。 『ボーイ』は。 そんなこといちいち言ってたらキリねえんだよ!」
<しかし、ヒャクショーはちょっと・・・・・」
「じゃあ、何て言やいいんだ」
<変換表によりますとですね、『農業従事者』もしくは『農家のみなさん』となりますけど>
「なんだそりゃ。 「農業従事者』だァ? 誰が決めた」
<噂ではNHKが・・・・・>
「何でそんなこと勝手に決めるんだよ。 それじゃまるでヒャクショーが悪者みたいじゃないか。 いいか、今井。 彼らは千年も二千年も、誇り高くそう名乗ってきたんだ。 それをたかだかこの十年や二十年の都会人の良識とやらで、なぜ勝手に換えられる。 差別という言葉にまさる差別はないんだぞ」
<はあ・・・・・すげえ論理ですね。 ま、言われてみりゃそんなきもするけど・・・・・しかし、何分きょう締切だもんで、議論はさておき―――>

「いや、納得できん。 今週は急病のため休載とする」
<わっ! 待って、ちょっと待って下さい。 先生は去年、四回も急病になったんです。 ここはひとつ、すぐにファックスを送りますからよろしくご再考下さい。 番号何番ですか>
「この宿にファックスはない。 バイク便を出せ」
<そーですか、ありがとうございます。 じゃ大至急うかがわせます>
「大丈夫か? ちと遠いぞ。 片道百キロはある」
<なあに、うちのバイク便部隊に不可能はありません。 片道百キロなんて、へたすりゃ通勤圏内じゃないですか。 ハッハッ、楽勝ですよ>
「ハッハッ、そうだな、楽勝だな。 よかったなあ、今井、 俺が病気にならずにすんで―――じゃ、健闘を祈る」


ぼくは受話器を置くと、裸の膝を抱えて笑った。
ひとしきり笑い転げると、急に悲しい気持ちになった。 ぼくはどうしてこんなふうに、何の罪もない人々を困らせるのだろう。 今井は誠実な男だ。 公器としての週刊誌の用語を校閲する担当者も、命がけで永遠の百キロの道を突っ走ってくるバイク便も、みんな誠実な男達にちがいない。

「先生、お百姓さんがどうかしましたか?」 振り返ると、清子が枕を抱いて立っていた。
「ああ、起こしちゃったか。 寝てろ、おまえには関係ない」
「でも、私のおじいちゃん、お百姓さんだったから」
ぜんぜん関係ない。 いったいこいつの頭の中はどういう構造になっているのだろうとぼくは呆れた。
ぼくは試しに聞いてみた。 「おまえのじいさん、農業従事者だろう?」
考える間もなく、清子は言い返した。 「おじいちゃん、そんなんじゃないです。 お百姓さんよ」
つまり、そういうことだ。 この際、今井がどやされることも、バイク便が遭難することも決して無意味ではないとぼくは思った。

清子は膝を抱えて雪景色を見つめるぼくの背に毛布をかけ、自分も人懐こい仔猫のように、するりとかたわらに滑り込んだ。 ぼくらはそうしてしばらくの間、窓の外に降りしきる雪を見ていた。
「じいさん、没落しちまったんだっけな」 清子は答えずに肩を落として、まっしろな溜息を吐いた。
いつか年老いて小説のネタも枯渇してしまったら、清子の生まれ故郷に古い農家を買って、二人きりで暮らそうと思う。 ぼくが死んだ祖父と同じ年頃になって、昼間は畑を耕し、夜は手枕をして寝てやれば、清子はきっとぼくのことを愛してくれるだろうから。
故郷を追われ、病気の母を支えながら、清子はいったい何人の男に抱かれたのだろう。
それでもぼくは清子を愛している。 無数の男たちがそうしたように、清子の上を通り過ぎることはどうしてもできない。 こいつは、ぼくの宝だ。

愛の言葉を、ぼくは知らない。 ぼくが心の底から愛しているはずの清子にも、周囲の誰に対しても、ぼくはそれが言えない。無理に言おうとすると、それはたちまち咽にからみついて、とんでもない言葉に変わってしまう。 あるいは暴力となって炸裂する。
「わかるわけねえよな。 教わってねえんだから」 ぼくは吐き棄てるように、そう独りごちた。



王侯の朝餐もかくやはと思われるほどの豪勢な朝食をたらふく食ったのち、ぼくはコーヒーを飲むためにロビーへと下りた。

大ガラスの前の広大な吹き抜けの下に、おそろしい悪趣味の調度品が並んでいる。
真っ赤な口を開けた虎の剥製とか、身の丈ほどもある色絵壺とか、水牛のツノとか、鎧とか刀とか、そういった摩訶不思議な芸術品に囲まれ、金華山織りのけばけばしいソファに座ってコーヒーを飲む。
背中合わせの席にうらぶれた老人がちょこんと座って、番茶を啜っている。
なんだか今にもバッタリと倒れてしまいそうな、不吉な予感がして振り返ると、それは銀髪を振り乱した仲オジだった。 ぼくは背中越しに声をかけた。

「おはよう、おじさん。 ちょっと痩せたんじゃないか」
とたんに、仲オジは茶碗を取り落とした。 なにもそんなに愕くことはないだろう。
もしかしたら刺客に狙われているのか、いや、とうとう指名手配でもかかったのかもしれない。

「・・・・・そう思うか。 やっぱり・・・・・」
「うん。 痩せたよ。 どう見ても5キロは痩せた。 よかったな、おじさん。 血糖値も下がったろう」
「ちっともよかない・・・・・そうか、おめえは聞かされてねえってこったな。 てことは、やっぱり黒田だな。 あいつが告知されたんだ。 ちきしょう、そらっとぼけやがって」
うう、と仲オジは髪の毛をかきむしって唸った。 この世でたった一人の血縁者なのだから、悩み事を聞いてやるのもやぶさかではないが、どうせロクな悩みではあるまい。

「孝の字・・・・・おめえ、早く所帯持て。 俺の目の黒いうちに清子と一緒になってくれ。 な、今からでも遅かねえ、改心しろ」
大きなお世話だ。 ことに最後の一言は気に入らない。
「せっかくですがね、おじさん。 ぼくはお清を女房にする気持ちなんて、さらさらありませんよ。 どこの世界に、奴隷を嫁にする貴族がありますかね」
「・・・・・おめえは悪いやつだな。 前々からそうじゃねえかと気にしてはいたが、やっぱり悪いやつだった」
「おじさんとは血が繋がっています。 ちっともふしぎじゃないでしょう。 よくそんなことが言えますね、しらじらしい」
仲オジは抗弁もなく、ガックリとうなだれている。 追い討つようにぼくは言った。
「第一、悪いやつにしたのはどこの誰です? 改心しなきゃいけないのは、そっちの方でしょう」
「・・・・・もういい。 勝手にしろ」
仲オジは叱言を言うかわりに、いきなりポイとシュガースプーンを投げた。
それは二人の頭越しに銀色の弧を描いて、大柱の根元まで飛んでいった。 さすがは仲オジである。 
調度品のセンスは最低だが、こういうオシャレなパフォーマンスを、ぼくは内心尊敬している。

「あーあ、サジ投げられちゃった。 もうだめだ」
ぼくは相槌を打つつもりでそう言っただけなのに、いったい何が気に入らなかったのか仲オジは突然立ち上がって怒鳴った。
「いいかげんにしろ、孝の字。 病人をおちょくって何が面白え!―――あっ、おめえ知ってるんだな。 やっぱ知ってるんだな!」
何だかわけがわからんが、ぼくはうんざりとした。
仲オジだろうが癌だろうがエイズだろうが、そんなことはぼくの知ったこっちゃない。
「お気の毒だね、おじさん。 早いとこくたばって、遺産よこせよな。 立派な葬式出してやるから」
仲オジは立ちすくんだままワナワナと慄えていた。 しかしぼくの悪態にはわけがある。
つまり―――仲オジはちょっとやそっとのことでは死なない。

やれやれと、ぼくはスプーンを拾いに立った。 屈みこんだ柱の裏から、いきなりヌッと白い女の素足が突き出された。
爪先から浴衣のすそを目でたぐり、冷酷に見下ろす女の視線と出会ったとき、ぼくはもんどり打って腰を抜かした。
「お、おまえは!」
「おはよ~ございます、先生。 やっとお会いできましたね~~~」
女は死神のような声で言った。
湯上りの髪はべっとりと濡れており、そのうえ細い体は冷え切ったように慄えていた。
じっと柱の蔭に隠れて、ぼくを待ち伏せていたにちがいない。

「おまえは、荻原みどり! 何でここにいるんだ。 どうしてわかったんだ」
ククク、と女はいかにもここで会ったが百年目という笑い方をした。
「信じられん。 あの大日本雄弁社さえ、そうとは知らずにバイク便を出しちまったというのに・・・・・」
「ククク。 これがマイノリティの底力というやつですよ。 おわかりになりましたか」
四つん這いになって逃れようとするぼくの腰帯を、荻原みどりはむんずと掴んだ。
そのままぼくの顔の前にぺたりと両膝をつき、打って変わった悲しげな表情で懇願するのだった。

「お願いします、先生。 私、このホテルに来て、目が覚めたんです。 会社の命令なんかどうでもいいんです。 ほんとうは<仁義の黄昏>が読みたくって、もう気が狂いそうなんです。 だから丹青出版の弱腰にいたたまれなくなって、原稿取りを志願したんです」
みどりはまるでシェークスピア劇のように大仰な身振りで、片膝を立て、大窓の雪景色に向かって両手を拡げた。
「そう。 網走の雪の中で出所した若頭が呟くんです。 『おめえらにゃ八年前ェの喧嘩でも、俺にとっちゃ昨日のことなんだぜ。 待ってろや・・・・・』―――待てない! 待てないんです!」

完全にハマっている。 ぼくの小説は全然普遍的訴求力には欠けるのだけれど、その分ごく一部の読者をハメるのである。

少し落ち着くと、激しい怒りがこみ上げてきた。
こういう読者のせいで、ぼくは決して望まぬ「極道作家」のレッテルを貼られてしまったのだ。
「キミの気持ちはありがたいがね。 ぼくはもう極道小説は書かんよ。 <仁義の黄昏>は永遠に未完だ」
「そんな・・・・・若頭は吹雪の中でたちすくんだままです。 凍え死んじゃいます」
「だったら殺しちまうか。 よおし、三行だけ書き足してやる。 これでどうだ、『俺にとっちゃ昨日のことなんだぜ。 待ってろや・・・・・そのとき、吹雪を切り裂いて一発の銃声が谺(こだま)した。 若頭は雪原にがっくりと膝をついた。 急激に薄れていく意識の中で雪を掴みながら、若頭はくれないの牡丹が咲いているのだと思った―――』ジ・エンド。 最高の決着だ」
「いやあっ」と、荻原みどりは辱められた少女のように身をよじった。
「そんなのひどすぎます。 私も死んじゃいます」
ぼくは女の手を振り払って立ち上がった。

「勝手に死ねよ。 俺はおまえみたいな女は大っ嫌いだ。 偏屈で、しつこくって、暗くって、まるで新興宗教の信者じゃないか。 何か家庭の事情でもあるのか。おおかた定年退職したやかましいオヤジと、入婿さがしにやっきになっているオフクロでもいるんだろう。 それでにっちもさっちも行かなくなって、くだらねえ極道小説なんかにハマってるんだ。 おまえなんか死んじまえ。 毒飲んで死んじまえ」

何がそんなにショックだったのだろう。 女はそのまま動かぬ彫像になった。

「・・・・・おい、いいのか孝ちゃん。 ありゃそうとう思いつめてるぞ。 仕事を断るにしたって、もうちょっと言い方もあるだろうが」
仲オジはぼくの丹前の袖を引き寄せて、不安そうに言った。
「ふん。 かまうもんですか。 人間はああやって強くなって行くんだ。 雪が上がったら追い返しますから、宿代はぼくにつけといて下さい」
ぼくは呆然と瞬きもせずに立ちすくむ荻原みどりの目の前を、これみよがしに胸を反り返らせて通り過ぎた。 芝居もここまでできれば冥土のシェークスピアも喜ぶことだろう。

しかし、ぼくの手をしっかりと握った女の小さな掌の感触は、まるで夭折(ようせつ)した王女の手の温もりのように、いつまでもぼくを悲しませた。



16
大浴場「極楽の湯」は、一流老舗旅館にも決してひけをとらない立派な造作である。
懲役をおえた男たちが湯にひたりながらこの先の人生を考え、あるいは自首する犯罪者たちが浮世の垢を落とす―――オーナーの標榜するそんなテーマはともかくとして、この山奥のホテルによくもまあこれだけのものを造る気になったものだと、花沢支配人はつねづね感心している。

湯殿から懐かしいメロディーが聴こえてきて、支配人はパウダールームを片付ける手を止めた。
ズボンの裾をシャツの袖をまくり上げ、靴下を脱いで支配人は湯殿に入った。

登山家はたくましい体を湯舟の巌にあずけて嗄れた声で唄っていた。 少年はその足元で湯に浸かっている。
支配人が懐かしく聴いたのにはわけがある。 学生の頃、登山はちょっとしたブームだった。
山好きの親友が、いつもこの歌を口ずさんでいたのだ。
「やあ、お世話になってます」と、山男は白い歯を見せて笑いかけた。
「すっかりいい気分になっちゃって。 体が温まったら、出かけますから」
「お出かけになる?」 「ええ。 山に戻ります」
本気なのか、それとも遠慮をしているのか、支配人は少し考え込まねばならなかった。
「そうおっしゃらず。 こうぞ今夜はお泊り下さい。 お代はけっこうでございますから」
山男は困惑している。 本当に山へ戻りたいのだろうと支配人は思った。

「お背中、流させていただいけますか」 「え?いいよ、いいよ。 申し訳ないから」
「お客様のお背中をお流しするのは当館のきまりでございます。 いつもはオーナーがするのですが、きょうはちょっと体の具合がすぐれませんので、わたくしがかわって」
へえ、と山男は感心したように湯から上がった。
少し恥じらいながら腰を下ろした武藤嶽男の背中の大きさに、支配人は愕いた。
まるで千の倉沢の出合から仰ぎ見た、大神楽岳の威容そのものだ。

「さきほどの歌・・・・・山好きの友人がいつも唄っていたんです。 聴くのは三十年ぶりですけど、すぐに思い出しました。 高校三年の夏に、遭難しましてね」
「ああ、そうでしたか・・・・・どちらで?」
「南アルプスの北岳でした。 実は新宿駅のホームで彼を見送ったんです。 孤独なやつで、あんまり友達もいなかった。 山岳部にも入っていなかったんですよ、彼は」
客に聞かせる話ではないなと、支配人は口をつぐんだ。
「あなたは、何年のお生まれですか」と、武藤嶽男は溜息まじりに訊ねた。
「二十二年の亥年です。 お客様も同じご年配とお見受けいたしますが」
「ズバリですね。 登山ブームは僕らの世代まででしょう。 そのあとは、べつに山じゃなくたって他に面白いものが増えたから。 今の若い人、あんまり行きませんね」
「そういえば、山岳部は大繁盛でした。 お客様も、学校の山岳部から?」
武藤の大きな背中から男の匂いが立ちのぼっていた。 饐えた、肉感的な男の匂いだった。
「僕は中卒ですから。 同じ山岳部でも、工場の山岳会の出身です。 あの時分はね、三人寄れば山岳会とか言われて、大神楽岳に向かう夜行列車なんて、週末にはスシ詰めでしたよ」
「とすると、お客様も初めは大神楽で?」
「そうです。 出合の小屋で仮眠をとって、まだ暗いうちにソレッって岩壁にとりつくんです」

少年が湯から上がって、檜の湯縁に腰を下ろした。
どうしてこんな少年が雪山にいたんだろう、と支配人はふしぎに思った。
「わかんないんだよなあ・・・・・山に登るんなら登山道があるんだし、大神楽岳には観光リフトだってあるのに、何でわざわざ岩壁をよじ登るのかな。 ねえ、おじさん、どうして?」
少年は聡明な顔をしている。 素朴な疑問ではある。
「それはだな・・・・・」と言いかけて武藤は答えを探しあぐねるように口を閉ざした。
しばらく考えるふうをしてから、武藤はまったく見当違いのことを言った。

「ぼうず。 おまえのクラスは何人いる」

「え、クラスですか?―――三十五人、かな」
「一学年に何クラスあるんだ」
「三クラス、ですけど、それが何なの?」 
とたんに、武藤は何がおかしいのか筋肉をぎしぎしと軋ませて笑った。 「ご同輩、あなたは?」
「それは、何といっても団塊世代でございますからね。 A,B,C・・・・・ええと、ともかく十クラス以上ありました。 しかも一クラス七十人ですよ」
「そうでしょうね。 僕なんか田舎育ちですから、おまけに教室も先生も足らなくてね。 一クラスを午前と午後に分けてたんですよ。 つまりひとつの机の持主が二人いるわけ」
「ウッソだァー」と、少年は言った。
「ウソじゃないですよ。 そのぐらい子供が多かったんです。 たしかに学校によってはニ分割の授業をやっていましたね。 七十人のクラスってすごいですよ。 ニ、三人いなくなったってわからないし、まともに先生の声が聞けるのは、前の方の生徒だけ。 そうでございましょう、お客様」

思わず同意を求めたとき、支配人は何となく武藤の言わんとしていることがわかった。
七十人のクラスは教師の目が行き届かない。 伸びる子供は伸びたし、落ちこぼれも多かった。
家庭ではどこも、おかずの奪い合いだった。 ひどくサバイバルな環境の中でとにもかくにも大人になったという気がする。
洗い終えた背中に湯をかけると、武藤は「やあ、ありがとう」と言って、晴がましい笑顔を少年に向けた。
「わかるか? わからんだろうなあ。 三十五人のクラスで勉強して、家に帰れば専用の皿に夕飯が盛ってあるような今のガキに、わかるわけないよなあ」

少年はきょとんと目を丸くしている。 「どういうこと?」

「つまり、毎日がごちゃごちゃで、何が何だかサッパリわからん。 勉強どころか、食い物のうまいまずいだってよくわからん。 早い話、自分がどこの誰だかもわからなかった。 そこで、山に行く。 岩壁は自分が誰だかを正確に教えてくれる。 ザイルで結び合えば、それはかけがえのない親友になる。 メシは自分で用意した分だけ、落ち着いて食えるしな」
もちろん支配人には武藤の言うことがよくわかるのだが、さてこの少年にはどこまで理解できるだろうか。 少年の細い背を洗いながら支配人はかつて息子の繁にも同じような説教をしたことを思い出した。

武藤は湯の中で顎鬚をわさわさと洗った。
「まあ、あれやこれやと世話やいてもらったうえに、たいした理由もなく死のうなんて、ずいぶん贅沢な子供だな、おまえは」
少年の背がすくみ、支配人は手を止めた。 これで事情の大方はわかった。
「イジメ、ですか?」 「そうだとよ。 どう思いますかね、僕にはさっぱり理解できないんだが」
支配人は即答を避けた。 かわりに少年が抗った。
「おじさんは新聞とかテレビとか見ないから、そんなこと言うんだよ。 おとうさんと同じさ、外国には日本の社会問題なんて伝わらないから、だから―――」
「いいかげんにしろ。 おまえの屁理屈はもう聞き飽きた」
武藤がほんの少し声を荒らげただけで、少年は押し黙ってしまった。

「俺はおまえを救けたんじゃないぞ。 じゃまだからどけたんだ。 ゴミは目障りだからな」
「―――ひどい言い方するね」
「だからゴミの理屈など聞かん。 昔は町じゅうがゴミだらけだったから、拾うやつもいなかった。 今はみんなが振り返ってくれる。社会問題にもする。 おかげでとうとうゴミが口を利くようになった。 拾ってくれ、片付けてくれってな。 情けない話だ」
「つまり、おじさんもゴミだったわけだね」
少年が言い返すと、武藤は露骨に気色ばんで、「このやろう」と唸るような声を出した。
支配人が口を挟まなかったのは、武藤の真剣さに気づいたからだった。
明らかに武藤は少年とザイルを組んでいた。


「そうだ。 俺はゴミだった。 おまえのおやじも、そこのホテルの人もみんな同じだ。自分のことは自分ひとりで考えて、始末しなけりゃならなかった」


「だから僕だって、始末をつけに来たんじゃないか」
「嘘をつけ。 じゃあこのザマはなんだ。 何でそんなに幸せそうな顔をしていやがる。 俺に救けてもらって、風呂で背中を流してもらって、そのうちおめでたいおふくろが、おろおろと迎えに来るんだろう。 それで大成功なんだろう」
少年はあやうい足場を蹴って、ザイルをたぐりよせた。
「じゃあ、もういっぺん説明してよ。 わかりやすく。 ゆうべ、おじさん言ったろう。 死にたいというのと、死んでもいいというのは大違いだって。 最低の男と最高の男のちがいだって。 僕は一晩中ずっとそれを考え続けていたんだ。 わからないから、死ぬこともできなかったんだ」
武藤は岩場の高みから、強引にザイルを引き寄せた。

「よおし、わからなけりゃ教えてやる。 人間はな、死ぬのがふしぎじゃないんだ。 生きているのがふしぎなんだ。 自分の目でルートを読んで、耳で風の音を聴いて、独り言で勇気を奮い起こして、手でホールドを握って、足でスタンスを探って、全知全力をつくしていなけりゃ、たちまち死んじまうんだ。 おまえはそのことが全然わかっていない。 人間がか細い骨と、ブヨブヨした肉の袋だってことを、全然わかっていない」
「僕は山なんか登らないよ。 興味ないよ。 もっとわかりやすく言ってよ」
少年のちからはことのほか強い。 二人の体をくくったザイルは張り詰め、軋みをあげている。

「僕は一生けんめい考えたよ。 死なないですむ方法だって、ずっと考えてきたよ」
少年は泣き声になった。 しかし武藤はひるまない。
「考えてるものか。 おまえは、おやじやおふくろや、先生や友達や、たくさんのパートナーのさしのべたザイルの先に、ブラブラとぶら下がっている。 引き上げてくれるのを待っている。 ホールドもスタンスも決して探ろうとはしない。 ザイルを引こうともしない。 イジメとかいう風にあおられて、ああ、死んじゃう死んじゃうって、泣き喚いてるだけだ」
「おとうさんは聞いてもくれないよ。 いじめられてるって言っても、へらへら笑うだけで、勉強しろ勉強しろって」
「おやじはザイルのトップを切ってるんだ。 岩場にハーケンを打って、おまえらの体重を確保して、さあ上がってこいって言ってるんだ。 風を読む余裕なんてあるものか」

少年は答えなかった。 言葉につまって、武藤のきついまなざしを睨み返すだけだった。

「まだわからんのか。 難しいことは何もない。 おまえはまだ子供だから、自分でハーケンを打つ必要はないんだ。 目の前におやじの踏み跡があるだろ。 しっかりザイルを引いて、ホールドを掴んで、スタンスを踏め」
少年はとうとう、裸の背を丸めて泣き出した。
指のすっかり欠け落ちた掌をさしのべて、武藤は少年の頭を揺すった。
「誰でも、怖いものは怖い。 立っている場所がわからなくなることもある。 だが、あわてちゃだめだ。 あわてずに、ワンピッチずつ、体を持ち上げろ。 おまえは頭がいいし、ザイルもけっこう丈夫だ。 自分で落ちようとしない限り、落ちる心配はない」

少年は膝を抱えて泣きながら、ぽつんと言った。 「続き、唄ってよ」
武藤はちらりと支配人の顔をみて、照れるようにいちど咳払いをした。


息子たちに 俺の踏跡が
故郷の岩山に 残っていると

友に贈る 俺のハンマー
ピトンの歌う声を聞かせてくれ


「ピトン、って、なに?」 「ハーケンのことさ。 英語でピトンと言う」
「ピトンの歌う声・・・・・わからないな」
「ピトンは歌うんだ。 いろんな声でな。 穏やかな春の日にはやさしく唄ってくれる。 吹雪の氷壁では金切り声を上げる。 大神楽のスラブでも、北岳のバットレスでも槍でも穂高でも、俺はずっとピトンの歌声を聴き続けてきた」
「エベレストでも?」
「ああ。 いい声だったぞ。 俺は頂上に登りたかったんじゃない。 山々に谺するハーケンの響きが聴きたいんだ。 いつでも俺はこの指と引き換えに、ピトンの歌声を聴かせてもらった。 ちっとも悔いはないさ」
「それじゃ、きのうはじゃましちゃったのかな」 「そうだよ、ぼうず。 迷惑なやつだ」
「ごめんなさい、おじさん」と少年は小さく、はっきりと言った。

武藤は真っ白な歯を見せて笑った。 
笑いながらふいに真顔になって、独りごつように呟いた。
「若い頃、大神楽でずいぶん仲間を失った。 なんだか俺ひとりが英雄になって、世間からもてはやされているみたいな気がしてな。 それで急に思い立って、最終列車に乗ったんだ。 俺の道具はピッケルも、ハンマーも、アイゼンも、みんな死んでいったやつらの形見なんだ。 昔みたいに、がむしゃらに氷壁を登りたかった。 奥壁のルンゼを登れる所まで登って、やつらにピトンの歌う声を聴かせてやろうと思ったんだよ」
支配人は、いつの間にか少年と同じように頭を垂れている自分に気づいた。

「いや、待てよ。 べつに迷惑をかけられたというわけじゃないな。 うん、そうだな」
勝手に納得してから、武藤はからからと大声で笑った。
少年の泣き顔をまばゆげに振り返って、武藤は言った。


「あのころの俺たちは、おまえとどこもちがわなかった。 つまらん説教しちまったな。 
いま気がついたよ」


支配人はそっと立ち上がって、二人の背中に頭を下げた。

引戸を締めかけて振り返ったとき、立ち込める湯気の中に寄り添う二人の姿が、
ガスに巻かれた岩棚の上で息を入れる、ザイル・パートナーのように見えた。




17
「それじゃ、行きますよ。 板長、トップをお願いします」
「えっ。 トップはおめえに任せる。 俺ァもう齢だし、めかたもおめえの方がずっと重い。さあ、行け」
「いや、やはり登攀技術の点からしても、先輩がハーケンを」
「うるせえ。 隊長は俺だ。 隊長の判断に従うのは板場の、じゃなかった、山の掟だ。 行け、服部」


日頃の献立については、ことあるごとに競り合う板長とシェフが及び腰で先を譲り合うさまを、弟子たちはげんなりと見つめている。
「うう。 自信ないなあ。 ビビるなあ。 じゃ行きますけど、もしスタンスはずしたら―――」
「わかってる。 ちゃんと確保してやる。 俺を信じろ」
弟子たちの雪山讃歌に送られて、二人は厨房を出た。 装備は完全である。
ヘルメットを冠り、ピッケルを握り、体はザイルで繋がれていた。

「しかし、板長。 いきなりこのなりでお部屋に伺って、氷壁の登攀を教えてくれっていうの、ちょっと図々しくないですか。 きっとたまげますよ」
「じゃあどうすりゃいいんだ。 白衣着て、帽子かぶっていくのか。 もっとたまげるぞ」
それもそうだと、服部は廊下をラッセルし、階段の登り口にとりついた。
「おい服部。 もうちょっとピッチを上げられねえのか。 膝が慄えてるぜ」
「そういう板長だって、ザイルを引っ張らないで下さい。 あれ、なんで手すりにしがみついてるの」
「だってよ、おめえ。 なにせ相手はあの武藤嶽男だぜ。 アルプス三大北壁の冬期単独登攀。
ヒマラヤ八千メートル峰四座の覇者だぜ。 ああ、俺ァもう胸がドキドキして、どうかなっちまいそうだ」
「高山病、じゃないですか」
「冗談言ってる場合か。 さあ、ピッチ上げろ」
服部はピッケルに力をこめて、一歩ずつ階段を登った。
「あの、板長。 せめてアイゼンは外したほうがよかないですか。 すごく歩きづらいし、絨毯も傷みます。 支配人が見たら、卒倒しますよ。 なにしろタバコの焼け焦げを発見しただけでもワーッて悲鳴を上げる人ですからね」
「うむ。 言われてみれば、ちょっと非常識な気もする。 だが、この際仕方あるめえ。 このなりでスリッパをはくわけにゃ行くめえよ」

三階までようやく登りつめて息を入れる。
「服部、しばらく休もう。 いよいよアタックだ。 落ち着け、落ち着け」
「いるかな」
「はい、隊長。 サポート隊の報告では、つい先ほど風呂から上がったそうです。 さあ、ここからトップを交替して下さい。 栄光の初登頂はまず先輩から」
「いいよいいよ、遠慮せず、どうぞお先に」
「・・・・・いつもと全然違いますね。 競ってきませんね」
「行けったら行け。 こんな不安定なスタンスで止まるバカがいるか。 勇気を出せ、服部!」

そのとき、いきなり武藤嶽男がドアから顔を出した。
当然のことだが、武藤は極めて不可解な顔をした。 「あれ・・・・・どなた、ですか?」
「はっ、はい。 実は私、当館のあじさい山岳会の者ですが・・・・・」
「そそ、そうなんです。 先生にぜひその、何です、その山のナニをですね、何とかその、ナニしてもらえねえかと・・・・・」
武藤は部屋から出て、廊下の涯てに目を向けた。 頂をはるかに仰ぎ見るような目。 渋い。
武藤はふしぎなアタックチームを部屋に招き入れた。

「あのね、どういう事情か知りませんが、畳の上でアイゼンはないでしょう」
武藤の表情には余裕が有る。 おそらく狂信的な若者たちのアタックには慣れているのだろうと、服部シェフは思った。 板長はアイゼンをガチャガチャを脱ぎ捨てると、かなり板前っぽいしぐさで座敷の隅に膝をついた。
「まあ、あの、その。 いきなり不調法だとは存じやすが、山のナニをですね。 ぜひナニしてもらえねえかと」
「落ち着いて下さいな。 つまり、その装備から想像しますと、この機会に冬山の技術を教わりたい、と、そういうことですね」
「早い話がそういうことです」
武藤嶽男は困ったように首筋を叩きながら、窓辺の籐椅子に腰を下ろした。
「あじさい山岳会とは?」
「へい。 当館の従業員が会員でございやす。 暇をみては千の倉沢の岩登りなんぞを」
いかにもクライマーなんだぞ、というふうな板長の物言いに、服部は動揺した。
とっさにピッケルの先で板長の背をつついたのだが、地球が巨大なマナイタの上に載っていると信じているフシのあるこの中年の男は、てんで動じない。
「ほう。 カベをおやりになるんですか」
しげしげと二人のいで立ちを見つめる武藤の目は、明らかに蔑意を含んでいた。
「はい、そーなのです。 なんてったって山の醍醐味はカベ。 それも岩場に限りやす。 まあ、あっしもガキの時分からの山家育ちで、大神楽は庭みてえなものでございやすからね。 ハッハッハ」
つられて笑った武藤の口元は、一宿一飯の義理に歪んでいた。

「・・・・・なるほど。 しかし冬場の千の倉に入るにしては、ちょっと装備が」
「え? どこかおかしいですかい。 めいっぱいキメてきたつもりなんですけど」
武藤はやってられん、というふうに溜息をつき、パイプに火を入れた。
「たとえばですね、そのアイゼン。 四本爪の軽アイゼンじゃ、大神楽はムリでしょう」
ギクリ、と板長の肩が揺れた。 実のところ冬場の大神楽には、やっとこさ奥壁の取り付きまではって行って、せいぜい数メートル登ってくるだけなのである。
「それはせいぜい、丹沢か奥秩父あたりで使うものですよ。 千の倉登攀どころか、龍神尾根の縦走だってムリでしょう。 誰に勧められました?」

「誰って・・・・・ええと、雑誌の通販」
思わず口を滑らせた板長の頭を、服部はピッケルの柄で叩いた。

武藤はヒーターの上に置かれたナイロンケースを開けると、アイゼンを取り出して二人の目の前に置いた。 怪物のような道具に、二人は瞠目した。
「厳冬期の千の倉には、こういうバックル式の十二本爪が必要です。 前爪もこれぐらい張っていないと、蹴り込めないでしょう? 垂直の氷壁ではね、アイゼンそのものが足場なんですよ」
服部と板長はゴクリと唾を呑んだ。 二人は同時に、垂直の氷壁に蹴り込んだアイゼンの前爪に全体重をかける感じを、ありありと想像してしまったのだった。
ああっと、目まいを起こしてのげぞる板長の背を、服部はがっしりと確保した。
「それに、ピッケル。 まさかそれも通販じゃないでしょうね」
「・・・・・は、はあ・・・・・実はその、まさかです」
服部は壁に立てかけられた武藤のピッケルに目を向けた。 全然違う。
自分のそれとは、出刃とペティナイフくらい違う。
「あなた方のピッケルは縦走用ですよ。 つまり歩行の補助と滑落防止の役割しか果たしません。 カベをやるには、そこにあるような氷壁登攀専用のものでなくちゃ。 ほら、ずっと短いし、ピックの角度も急だし、刃の鋭さも違うでしょう。 垂直の壁では、あれとアイスバイルを両手に持って、ヘッドの打撃力だけでホールドを決めなきゃならない。 わかりますか?」
「・・・・・ということは、あの・・・・・両手と両足だけで、ヤモリみたいに登る、と・・・・・」
「そうですよ。 氷の壁に自然のホールドやスタンスがありますか? アイゼンの爪を蹴り込んでスタンスとし、ピッケルとアイスバイルを交互に叩き込んでホールドにするしかないんです。 アイガーやグランド・ジョラスは最初から最後までその連続ですよ。 一週間も十日も、そうやって登って行くんですよ。 こわいですよォー」

ひええ、と服部が気を喪いかけたそのときである。
ふいに隣室のドアが荒々しく開いて、廊下に尋常でない物音とうめき声が響いた。
廊下には、何でもアリのこのホテルでもまったく考えづらい悲惨な光景だった。
痩せた女が浴衣の胸を鮮血に染めてもがき苦しんでいたのである。

「大変だ、血を吐いたんだ。 おい、ボサッとするな、人を呼べ!」



マリアは思いつめていた。
いったい何という因果だろう。 すべてを忘れようとしてやってきた山奥のいで湯で、最も忘れえぬ男と再開してしまった。
自分は今も平岡正史を愛している。 その想いは男も同じだろう。 しかし二人は、足元に黒々と口を開けた死のクレバスを挟んで、再会したのだった。
ひとりで考えたかった。 階段の途中で、突然正体不明の山男たちとすれちがったが、目には入らなかった。

騒々しい物音がロビーに響いた。
「看護婦さん、大変だ、すぐ来てください! お客様が、血を吐いた!」
マリアは目を吊り上げると、浴衣の裾を掴みあげて駆け出した。



長湯から上がって暖簾をくぐりでたとたん、太郎は自分の居場所を見失った。
いったいこれからどうなるのだろう。
自分は死ににきたのだけれど、死ななかったのだからなにも変わりはしない。
みんなから説教され、平謝りに謝って、明日からはまたいつに変わらぬ日々がやってくる。
母や姉をどんな顔で迎えたらいいのだろうと、太郎は思いつめた。

電気掃除機の音が廊下を近づいてきて、額を剃り上げた暴走族のような少年が柱から顔を出した。
目があったとたん、少年は三白眼をグイとひん剥いて太郎を睨みつけた。
「おめーかー、千の倉沢に死にに来たっつーバカは。 ダッセーよなー、なに考えてんだろーなー、このタコ」
ゾッと鳥肌立って、太郎は茶碗を抱いたまま身を硬くした。 あいつらと同じだ。
「僕、お金持ってません。 電車賃しか持ってこなかったから・・・・・」
少年は足元にぺたんとしゃがみこみ、いっそう眉間に皺を寄せて太郎を睨みあげた。
「俺、カツアゲなんかしねーよ。 もうそういうのやめたんだよ。 ははあ、わかったぞ。 おめー、イジメられてんな。 ダッセー! おめー、しょっちゅう学校でムシられてんだろー、ブショッたい顔してっから狙われるんだよ」
「ブショッたいって?」
「お金上げますって顔してんだよ、おめーは」
「そう、ですか?・・・・・」

「おめー、もう絶対に死なねーですむ方法、おせーてやろーか」 
太郎はすがるように目を上げた。
「教えてよ」と、太郎は肯いた。
「人に言うなよー」 「言わないよ」
「不良ってのはみんな弱っちいわけ。 コンジョーねーんだ。 俺は別だけどよー」
「うそだ、みんなすごいよ」
「すごくなんかねーんだって。 考えてみな、自分よかつえーやつにゃ絶対向かってかねーから。 センコーにゃぺこぺこするし、ゾクの先輩がくりゃ、オッスオッスだろー。 コンジョーありゃ不良になんかなんねーって。 あいつら弱っちいから。 コンプレックスのかたまりなんだ」
「じゃあ、どうすればいいの」 カンタンカンタン、と少年は太郎の肩を叩いた。

「基本的にはよー、やつらよかデカい声を出しゃいいわけ。怒鳴り返しゃいいんだ。 暴力なんか必要ねーんだぜ。 ためしにやってみな、カンタンだから」
「そんなの・・・・・できないよ」
「ビビッてんじゃねーよ。 悪いのはおめーじゃねーんだろ。 ビビるのはいつだって悪いことしてる方じゃなきゃおかしーつーの。 ちょっと言ってみな」
「・・・・・なんだ、ンナロー・・・・・」 「だめだめ、そんなんじゃ。 もいっぺん」
「・・・・・なんだ、ンナロー!」
「まだまだ。 俺の目を見ろって。 ちょっとこう、しゃに構えてよ、顎ひいて。 そうじゃねえ、横むくんじゃねえ。 よし、そのまま、ンナロー」

「こう?・・・・・なんだァ! ンナローッ!」

力いっぱい叫ぶと、相手の少年はハッと後ずさった。
「こえーっ、おっかねーっ!」
「・・・・・ほんとに、怖い?」
「こえーよ。 あのな、今ビビったのはよ、何を隠そう西荒川狂走連合のアタマだぜ。 そこいらのツッパリ中学生なんざ、ひとたまりもねーって。 忘れんなよー、忘れねーよーに練習しとけよー」
少年はそう言うと、何事もなかったように掃除の続きを始めた。

突然、スピーカーからあわただしいチャイムの音が響いた。
「業務連絡! 緊急事態発生! 血液型O型の組員、じゃなかった従業員は、ただちに三階の『杉の間』に集合! くりかえすっ―――」

「カチコミだっ!」
掃除機のパイプを握って駆け出す少年の後を追って、太郎も走った。



続く